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追悼・鶴見俊輔さん [エッセー]

<追悼>  生涯お世話になった鶴見さんが逝った (上)

             長沼 節夫



その日(7月24日)はちょうど大阪・天満橋のエル・おおさかで、「ぶっとばせ!戦争法案」というテーマで講演をすることになっていた。目覚めてびっくりした。「朝日新聞」朝刊が1面で「鶴見俊輔さん死去/93歳『思想の科学』、べ平連」と報じていたからだ。

それで講演は、「生涯にわたってお世話になった鶴見さんの訃報を聞いて。誠に残念です。それで本日お話しする私のつたない講演を、鶴見さんに捧げたいと思います。訃報を知ってまず思い浮かんだのは、『伊勢物語』のおわりに掲げられている、『ついにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思わざりしを』といううたでした。在原業平があるときふと、『ああ俺、間もなく死ぬんだな』という気がしたので詠んだといわれているうたです」と、前置きした。



<本当はアナーキストだった?>

鶴見さんは表向きプラグマチストだ、いやリベラリストだと言われたりしますが、私は本当はアナーキストだったと思う。現代日本人でアナーキストのかどで逮捕された唯一の生き残りだったと思う。彼は米ハーバード大でプラグマチズムを学んだそうだが、当時ではまだ、「サッコとバンゼッティ事件」の余燼が覚めやらぬころだった。あるテロ事件を巡り、イタリア人移民でアナーキストだったという理由だけで捕まり、冤罪事件として世界中で助命運動が起きたのに1927年、電気椅子で処刑されてしまった。事件が起きたのはハーバード大の目と鼻の先ボストンだった。「死刑台のメロディ」という映画にもなり、77年、改めて無罪判決が出た。多感な青春前期の鶴見さんが影響を受けないはずはない。さて逮捕されたものの間もなく第2次世界大戦が勃発。服役するかわりに最後の日米交換船で帰国している。

 私が初めて鶴見さんの謦咳に接したのは、60年代、「人形の会」か「家の会」だったかどちらかの、雑誌「思想の科学」の読書会サークルだった。やがてベトナム反戦運動が高まったある日、鶴見さんから、『ベトナムからチク・ナット・ハーンという反戦仏教僧を呼んだが、案内する時間がなくなってしまった。すまないが長沼さん、広島に行ってバーバラ・レイノルズに、次いで比叡山延暦寺に行って千日回峰を終えたばかりの中野さんという高僧に引き合わせてくれないか』と、その案内を頼まれて、数日間、同師と旅をした。その後、反戦サークルで同師を囲み座談会があると、その通訳もさせられた。私が未知の言葉に出会って立ち往生すると、鶴見さんがいたずらっぽく笑って助け舟を出してくれた。



<ベトナム反戦と大村収容所>

また、「思想の科学」で思いっきり長い韓国ルポを書きなさいとも言ってくれた。しかし貧乏学生では原稿料を前借りしてもちょっと経費が足りない。それではと鶴見さんは「アサヒグラフ」の編集者に引き合わせてくれ、その両誌にルポを書くことで旅は実現することになった。

その頃、密入国後に長崎県大村収容所に収監、病気仮出所中という任錫均さんが、京都に私を訪ねてきた。「収容所の仲間が京大新聞を読んでいたので、あなたの韓国ルポを毎回楽しみにしていた」と言った。鶴見さんと、彼の親友飯沼二郎人文研助教授に相談すると、早速、二人は彼を守る運動を立ち上げようと応えてくれた。お二人は、「そもそも大村収容所の存在も許せない」という点でも一致した。(2015.7.26.記=つづく

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