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2019-07-31 [エッセー]

1970年代末、女たちの会は李姫鎬さんというよきカウンターパートを得て、日韓連帯運動は大いに盛り上がった。ソウルの紡績会社の労働運動にまで、かのKCIAが暴力的に介入するに及んで日本側では新聞記者だった松井やよりが中心になって、KCIA糾弾の芝居を上演。その収益を韓国に送金した。余談だがさすがKCIA役は女には無理。そこで評論家武藤一羊、鄭敬謨、「現代の眼」の山岸修や筆者らが友情出演して、権力と闘う韓国女性労働者役の松井らに襲いかかり、さんざん打ちすえ足げにした。しかし最後は女性の闘いが勝利し、出演の男女全員で労働歌「プリパ」を歌って大団円を迎えた。 ♪♪我らはプリパ(根っこ)だチョッタチョア/膝を曲げて生きるよりは立ったままで死のうじゃないか/我らはプリパだ・・

 1980年代の死刑判決、米国亡命と90年代の大統領選勝利の時代にも金大中氏と何度も会ったが、金氏の傍らには常に夫人の姿があった。大統領の任期を終えて4年後の2007年冬は筆者が金大中夫妻の自宅にお邪魔した最後となった。金大中事件(73年)の国家レベルの真実調査委員会による膨大な最終報告書について、金氏がただ1点で「これは事実と異なる」と言って受け取りを拒否したと前日、調査委員長自身から聞いたばかりだったからだ。個人的とはいえ同事件発生以来、真相究明を続けてきた自分としては、これはぜひ、金氏本人の口から聞いてみたい!


朴正熙独裁政権批判の急先鋒だった金大中氏が政権側、特にKCIAから受けた弾圧は筆舌に尽くしがたいものがあった。東京都心からの拉致事件、自宅軟禁、投獄、死刑判決、米国亡命など。夫人はその全てに寄り添った。それは日本国内の「金大中を救え」「独裁反対」の市民運動と呼応した。1977年に松井やよりや五島昌子らがたち上げた「アジアの女たちの会」は機関誌第1号の表紙をソウルでの李さんたちの運動で飾った。別の表紙は李さんらが、言論弾圧に抗議して、黒いテープを口に貼って行進する姿も。


 応接間に招き入れられ、金氏のいつもながらの、「やあよく来ました」というポーズを期待していたが、姿を見せたのは李姫鎬さん1人だった。「しばらくぶりですね」という挨拶もそこそこに、夫人は、「明日ではいけませんか」と、次のように語った。これはマスコミにも秘密にしているが、金は大統領時代から腎臓を患い、今では週3回の透析が欠かせない重病だ。透析を終えた後は別人のように元気になって、いくらでも話すが、透析前日は何も言えず、死んだようなもので、絶対会わせられない。

 それで今回の金氏会見を断念した。予め会見の約束をせずに来たのも非常識だし、貧乏記者は格安航空券に頼ってしまう。その切符によれば筆者は明朝には仁川空港から東京に戻らなければならない。その日、夫人の下を辞して1年半後に金氏は逝き、そして今回の夫人逝去。夫妻の冥福を祈る。おわり。

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