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李ヨンスさんのこと [エッセー]

  今や20数人にまで生存者が減った韓国の元日本軍強制従軍慰安婦の中で、一番元気なのが、韓国大邱住の李ヨンスさんだ。筆者は李さんが1991年、名乗り出て最初にインタビューして以来、強い友情関係で結ばれている。
紹介してくれたのはそれまで一番親しかったやはり元慰安婦の姜徳景さんだ。1991年8月、ソウルで第1回挺身隊問題国際会議があった昼休み、姜さんは、「長沼さん、私はもう随分話したし、ほかのハルモニからも聞きなさい。この人は昨日、名乗り出たばかりで、まだ誰にも話してないよ。イルボンマル(日本語)は忘れたけど、私が通訳したげるよ」と言った。李さんは先日、金学順ハルモニが、「私は日本軍慰安婦だった」とテレビで語ったのを見て、何と勇気ある人だろうと感動した。それで自分もまた慰安婦だったことに気づいた。自分も申告しなければ。まず地元の新聞社に行って聞くと、ソウルの挺対協に行って、尹貞玉さんに会いなさいと教えてくれた。尹さんに会って、「実は私の友人がが元慰安婦でして、本人が恥ずかしいというので私が代わって」と語りだした。しかし尹先生の優しさに隠しきれず、友達というのは嘘で、私が本人ですと打ち明けて、大泣きに泣いた。尹さんは、いや初めから分かってましたよ、可哀想にとだきしめてくれた。

すでに数人の慰安婦インタビューをまとめて「週刊金曜日」に発表した後だったが、その後、ソウルへ来るたびに李ヨンスさんは遠い大邱から新幹線に乗って駆けつけてくれた。筆者がきづかぬうちに、日本語が飛躍的に上達した。日本で飲み明かして筆者の次男宅に泊めて上げたこともあれば、私が大邱で李さんの家に泊めてくれたこともあった。翌年、マニラで開催した集会にも一緒に参加したが、会場で李さんはまた激しく泣いた。「何気なく使っていた慰安婦という言葉の意味を初めて教わりました。何であいつらを慰安した積もりがあるものか。これが私の一生ついてまわる肩書だなんて絶対嫌だ。日本軍強制従軍慰安婦被害者といことばを絶対いれてほしい」以来、李さんの訴えは国連や欧州各国にも広がり、米国下院は対日避難決議まで採択した。

一昨年、ドイツテレビ記者の西里ふゆ子さんが動画を送ってくれた。「上海取材中に李ヨンスさんと会い 、長沼さんが共通の友人と知った瞬間盛り上がって、何かメッセージはとビデオ回した結果がこれです」。画面の中でチマチョゴリに盛装した李さんは立ち上がり、両腕でハート形をつくって、「長沼さん、愛してます」と笑いながら叫んでいた。ありがとう、西里記者、ありがとう、李さん。

次いで春には木瀬慶子さんが、見舞いに立ち寄ってくれた。国会前抗議集会の帰りだという。長年、「9条連ニュース」を発行し続けて、今は地元で「求める会川崎」の中心メンバー。インドのムンバイや、ブラジルのポルトアレグレで開かれた「もうひとつの社会を 世界社会フォーラム」でも出会った。ブラジル行きでは、成田からブラジルサンパウロまでの経由地である米国ヒューストンまで同席で、ずっと人生を語り続けた。昨年暮れ、大邱で開かれた李さんの卒寿祝賀会に行って、李さんから長沼さんのことを随分聞かされたという。祝賀会が済んで2次会では地元の病院経営者が日本人グループ20人を 高級レストランに案内し、ご馳走を振る舞ってくれたと楽しそうに話した。

次いで夏には、埼玉県在住の市民活動家の信川美津子さんが李さん祝賀会の写真多数を持って、見舞いに来てくれた。李さんは日本に来ると片時も信川さんを離さない。寝るときも一緒と言う。独り寝だと今もかつて自分をレイプした日本軍の悪夢に苦しむのだと言う。
 ああ、もう一度、李さんと会いたいなあ。(おわり)
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