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諏訪・岡谷の空気を深呼吸・・短歌の「ポトナム」忘年歌会に参加して [エッセー]

諏訪湖を見下ろす丘に立つ島木赤彦の旧宅「柿蔭山房」を訪ねる。

全国的な短歌結社「ポトナム」の関東甲信地区忘年歌会は例年、東京駅ビル「ルビーホール」で開くのを常としていたが、今回初めて信州諏訪の地で開かれた。当初の幹事が発病されたので、急遽、「信濃ポトナム」に幹事役が割り振られたからという。
 師走日曜の朝、新宿のバスセンターに駆けつけると、既に芝谷幸子代表(横浜在住)が先着されていた。昭和の末期まで、自ら広告会社を経営する傍ら主婦・母としての日常をも歌い続けた才媛の芝谷さん。来年は米寿を迎えんとしているが、ますます元気で大きな旅行かばんを自分でひょいとバスに引っ張り上げた。
バスで芝谷代表の脇に座り、「父親の仕事関係で小学校時代は米ロサンゼルスだった。関東大震災で首都圏がほとんど壊滅したという日本からのニュースを聞いて、被災地に送る救援物資を学校へ運んだ」など、芝谷さんの長い人生のエピソードの数々を聞きながら、富士急行の高速バスは一路信濃路へ向かう。筆者が飯田追手町小学校時代の恩師代田孟男先生(現在は厚木市在住)の勧めで「ポトナム」に入会したのは6年前のこと。一方、芝谷さんが「ポトナム」の創立者小泉とう(字解=草カンムリに冬)三(1894~1957)に誘われて入会したのが1948(昭和23)年というから、歌会歴では実に半世紀以上の開きがある。そもそもそんな二人がバスで席を同じゅうすることができるのは「ポトナム」の民主的な気風がなせる業か、はたまた筆者の礼儀弁えぬ非常識がなせる業か・・。
途中、相模湖から甲州へ至る途中の山々は、既にもみじが紅葉のピークを過ぎて、「元宋の赤」の時期を迎えていた。日本画家奥田元宋(1912~2003)が得意とした初冬のあのくすんだもみじ色だ。そして左手に雪被く富士と仙丈ケ岳や甲斐駒ケ岳、右前方に八ヶ岳と北アルプスの峰々。いずれも山頂は既に白銀に輝く。諏訪には約3時間で着いて、上諏訪駅近くの温泉旅館「渋の湯」の門をくぐると、直ぐが「歌会受付」となっていた。
参加手続きを済ませると間もなく、約50人の参加者が3つの分科会に分かれて歌会が始まった。参加者はあらかじめ自作1首を田口泰子幹事(飯田市在住)に提出し、それら提出歌の全てが印刷されて返送されてくると、それらの中から自分にとっての秀歌3首をまた田口さん宛て投票してあるのだが、まだ分科会の始め、作者名は伏せられている。そのほうが先入観なく、自由に批評や討論が出来るからだ。筆者の出た第1分科会ではめいめいの提出歌の批評が一巡した後で、東京・神奈川・山梨・浜松・奈良・信州など各地の参加者からそれぞれの地区の月例歌会の近況が報告された。このうち飯田・下伊那関係では次のような近況報告があった。
▼ 飯田並木会(報告者・原国子さん)=日曜昼過ぎの2~3時間、9人が公民館で歌会を開き、後でお茶や漬物で歓談。
▼ 飯田きさらぎ会(同・鈴木千代子さん)=果樹園や農家が多いので作業を済ませてから夜、伊賀良中村公民館に集まって。
▼ 松川町草の実短歌会(同・田村三好さん)=伊賀良と同じ理由で夜7時半から10時まで上新井公民館で。
 以上は第1分科会参加者からの報告のみだが、幹事の田口泰子さんによると、飯田・下伊那地域にはこのほか現在、▼八日会(豊丘村)▼天龍村短歌クラブ▼上市田短歌会▼新野短歌会などの「ポトナム」関係の定例歌会が続いているという。この地域の文化活動の活発な実態は「南信州」など地元新聞の短歌欄その他の多彩ぶりからも承知していた積りだが、「ポトナム」関係に限ってみても、我がふるさとにこれだけの歌会が毎月開催されているとは、まさに目を見張る思いだ。小学校恩師の妻・代田直美さんによると、教員時代の代田さん、やはり教員だった島崎和夫(1911~86、大鹿村生まれ)選者の時代、伊那谷の会員は100人とピークに達し、その隆盛が今につながるという。

 さて分科会が終わると、全体が大広間に集まって表彰式と忘年会である。参加者があらかじめ投票してあった秀歌3首を集計した結果、1位が9点で1人、2位が7点で3人だった。
1位作品は
・ 夏の日の恋は実らず青トマト青春のままピクルスとなる(神池あずさ=岡谷市在住)
で、芝谷代表から色紙の賞品が贈られた。因みに筆者の提出歌、
・店先に「裏の自宅にいます」という張り紙のあり田村商店(長沼)
は、今秋、仙丈ケ岳に登山しての帰り道、松川町の歌友田村三好さんの店を訪ねたときにあった張り紙から、宮沢賢治旧宅の「下ノ畑ニ居リマス」という書き置きの光景にダブらせて詠んでみたのだが、そもそも得点が入ったものかどうかさえ判明せず仕舞いであえなく討ち死にの体(てい)。なお田村さんの短歌はここ2年連続3回目の長野県知事賞に、昨年は歌集「天竜に近き店」で尾上柴舟賞に輝いている。
 忘年会は歌あり、日舞あり、フラダンスあり。その間に作品を通して知っていただけの方たちとの初対面があったり、「信州以外の方に信州りんご1個ずつのお土産」という申し出があったりで、にぎやかな忘年会となった。
いったんお開きとなって「日帰り組」が引き揚げた後は岡谷の歌人・今井哲郎さんの部屋に皆が集まって、今井さん持参のウイスキーや信州名物イナゴの佃煮などをいただいて短歌談義に花が咲いた。まさに「高談転(ウタ)タ清シ」(李白)である。その間にも温泉を楽しんだことは言うまでもない。寒くて未明に目覚め、温泉に入り直して体を温め、再び布団に潜り込んだが、今度は湖面を照らす十三夜の月影煌々として己が顔を照らして眠れず、暫く深夜ラジオで岡本敦郎と三浦洸一の懐メロを聴く。
・ 温泉にわが身あたたむ諏訪の宿月煌々として暫し眠れず(長沼)

明ければ快晴。地元在住の今井、神池両氏の車とタクシーに分乗して市内の半日ツアーを楽しむ。まず向かったのは諏訪湖を見下ろす丘の中腹の墓地で、道端に「北見志保子の墓」というまだ新しい道標が立っていた。10人ほどで墓石を囲み、誰歌うともなく、志保子の歌を口ずさんだ。
♪人恋ふは悲しきものと平城山にもとほり来つつたえ難かりき
♪古へも夫(つま)に恋ひつつ越へしとう平城山の路に涙おとしぬ(北見志保子)
 次いで訪ねたのは下諏訪町のやはり丘の中腹で坂の途中にある茅葺きの家、「柿陰山房 島木赤彦旧宅」だった。狩野永徳の襖絵に出てきそうなどっしりとした赤松の古木が印象的。
・ 桑の葉の茂りを分けて来りけり古井の底に水は光れり(島木赤彦)
など、数首の赤彦短歌が立て札に書かれていた。しかし赤彦といえば数年前、当地で今井さんに初めてお会いした折、「一番好きな一首は」との質問に答えられた一首がやはり一番忘れ難い。
・ 信濃路はいつ春にならん夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ(島木)
赤彦宅から坂を下って中央線をまたいでから右折し、諏訪湖を左に見ながら間もなくにある、同町「今井邦子文学館」を訪ねた。玄関脇にある今井のポートレートを見て、一行は口々に、「きれいな人だねえ」と感心するが、脇に、「当館は12~2月は休館とする。見学希望者は前もって島木記念館に申し込むこと」という張り紙があった。突然来ても見学できないのであきらめて、記念撮影だけとする。
・ぽつねんとこの諏訪のくにの屋根石ともだしはつべき我身なりしを(今井邦子)
車列をさらに進めて岡谷市に入り、諏訪湖西端の「釜口水門」に至る。我が伊那谷を貫く天竜川はここに発する。その水門の脇の広場に建つのが「小口太郎像」と「琵琶湖周航の歌」の歌碑だった。当地出身の眉目秀麗の小口が旧制三高生の姿で湖面を臨んで立つ。やはりここに立って歌わざるべからずだ。
♪われは海の子さすらいの/旅にしあればしみじみと/行方定めぬ波枕・・
と最後の6番まで歌い終えた。湖岸に沿って一行の解散地上諏訪駅へ今度は時計回りの帰り道、湖面におびただしい数のマカモ類と10数羽のコハクチョウの第1陣が、早くも北国から飛来していた。途中左手に、遠く白銀をいただく富士が見えた。
 「春から秋まで水蒸気で見えなかった富士が、寒いこの時期なってようやくはっきり見えるようになりました」と地元の運転手さん。
 駅前で昼食・解散後、筆者と歌人竹下典子さんの東京組2人が残った。竹下さんの「ガラスの里」(北澤美術館新館)が見たいというリクエストに応えて岡谷の神池さんが「ご案内します」と言ってくれる。今度はさっきと反対周りで再び岡谷方面に向かう。
「ガラスの里」を見終えて外に出ると、冬空の下、空気はぐっと冷え込んでいた。
「寒いでしょう。ほら諏訪湖のこちら側は日没がは早いのです。ここいらは<半日村>という位で」と、これも神池さんの解説だ。そういえば湖の彼方の上諏訪とその裏手に続く霧が峰方面はまだ、冬の日を燦々と浴びて紫色に輝いているではないか。
・午(ひる)過ぎて日の陰りたる里寒し「半日村」とは誰(た)が言い初(そ)めし(長沼)
最後に秋に詠んだ拙歌を再掲して、忘年会報告を終える。幹事役を果たされた「信濃ポトナム」の歌友諸氏に感謝する。
・ みすずかる信濃山並みまなうらに紫立ちてどこまで続く(長沼)  
                                                    (おわり)


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