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南アルプスの世界自然遺産登録にエール  今回、仙丈ヶ岳に登ってきました [エッセー]

 9月の末、琉球大学で長く物理を講じる畏友・山城健が久しぶり上京した。この好
機を捕らえ、二人で南アルプスの主峰の一つである仙丈ヶ岳(3033m)を目指し
た。山城は記者が飯田西中に学んだ時代以来の友だから、交友既に半世紀に及ぶ。郵
便友の会と学校からの紹介で文通が始まった。当時の沖繩はまだ米軍施政下の「外国」
扱いで、「琉球郵便」とドル表示で印刷された切手からして物珍しかった。高校卒業
後、「日本留学」がかなって上京。内地で初めて迎える冬休みを飯田で過ごそうとやっ
て来たときが、彼との初対面だった。浅黒い顔にきれいな瞳と長いまつげの典型的な
うちなんちゅー(沖繩人)は飯田で、生まれて初めて見る雪が嬉しいと言って戯れ、
家族の話す飯田弁が面白いなどと、何にでも興味を示した。
 大学生活の後半、今度はこちらが沖繩を訪問した。米軍支配は依然として続いてお
り、パスポートを取得しての渡航だった。今度は山城や彼の家族が南は摩文仁の丘か
ら北は遠く奄美諸島与論島を望むことのできる辺戸岬まで沖縄本島全土を案内してく
れた。すでに本土復帰は射程内にあった。各所に貼られた「標準語話す日本のよい子
供」といったステッカーが眩しかった。ひと足早く卒業した山城は初め、読谷高校の
教師をした。国費留学生は帰郷後の一定期間「公職」に就くことが義務となっており、
彼は教師の道を選んだ。そのお陰で沖繩では彼の学校に泊めてもらったり、多くの高
校生から話を聞くことができた。面積で日本国土の0・6%にすぎない沖繩が在日米
軍基地の75%を担わされている沖繩。読谷村は村の大部分が飛行場に奪われ、授業は
頻繁に爆音に中断させられていた。「爆音がないときまで家族と大声で話す癖がつい
た」と語った女生徒の言葉がが忘れられない。山城の案内は私が大学新聞に15回連載
した「沖繩よあなたは」に結実した。
 あれから50年。交友は続いたが登山に同行するのは今回が初めてだった。といって
も山城は学生時代から本土の山に親しみ、最高峰の富士山、第2位の北岳など高山に
何度も登っていたが、私は3千m級は60代にして初めてなので、山城に従って登る積
もりだった。
 早朝7時新宿発の特急「あずさ」で甲府へ。駅前で朝食を済ませて山梨交通バスで
南アルプスのふもとの広河原へ。南アルプス林道(かつてはスーパー林道と呼ばれた)
は自然保護の観点から広河原から先、一般車両は乗り入れ禁止とされ、登山者は南ア
ルプス市営バスに乗り換えなければならない。ここからバスは一気に標高を増し、シ
ラカバやカツラがわずかに黄葉を加える。やがて切り立った斜面の間に仙丈の峰が瞬
間望めた。「南アルプスの女王」と呼ばれる仙丈。山容は一見優しいが、本当はどう
だろうか。胸が躍る。やがて13時半甲州と信州の境界に位置する北沢峠に着いた。既
に標高2030m地点という。
 山城が土地の人に大平山荘経由、8合目の馬の背ヒュッテ(2640m)に向かう
登山口を尋ねると、「え、ここで1泊せずに今から馬の背? その回り道だと途中で
暗くなるかも知れん。それよりいきなりきつい登りになるけど、ここの登山口からす
ぐに出発したほうがいいよ」と言われたそうだ。休む間もなく出発だ。カラマツの樹
林帯が間もなくシラビソ林にさらにダケカンバへと変化するころから道の行く手には
大きな岩が立ちはだかるように上へ上へと続いていた。岩をよじ登るように越えると
き、ハイマツの枝やら根っこをつかむことができると、本当にありがたい。道沿いに
これらの根っこがなかったら、どれだけ難儀するか分からぬ。まさに神様仏様ハイマ
ツ様である。

・ハイマツや古木にすがりて登るなり ゆめ自力でなどと思い上がるな
・延べくれし仏のみ手とまごうなりガレ場ですがるハイマツの枝

 出発して2時間余り。ようやく「5合目・大滝の頭(かしら)」という標識のある
ちょっとした平地にたどり着いた。標高2520m。道をそのままたどれば小仙丈に
至るというが、そこに至る前に日が暮れよう。二股道を右に取って沢伝いに進むとは
るか彼方に馬の背ヒュッテの赤い屋根が見えてほっとする。このルートでは幾つかの
渓流をまたぐ。既に花の季節を過ぎた初秋の今となっては、トリカブトの濃い紫も貴
重な彩りである。渓流に足を取られそうになる所に張られた黄色のナイロンザイルが
ありがたい。そしてケモノ道に迷い込みそうな地点に打ち込まれた「伊那営林署」と
書かれた矢印の標識も大助かりだった。まだ渓流の水が沁みだして滑りやすい個所に
は小振りの丸太を打ち込んで、階段状の登山路を作ってくれている。かくて17時頃、
ようやく馬の背ヒュッテにたどり着いた。まだ日没にはかなり時間があるとはいえ、
山は日が陰りだすとたちまち暗く感じ、また気温が下がるので、明るいうちに着けた
ことは大きい。季節外れのウイークデーとあって、この日の山小屋の客は、福岡県か
らやって来たというJTBツアー・グループと我々2人のみだった。皆我らと同世代
に見える。
 「夏の最盛期には150人のお客さんがありました。もう全員直立不動状態で寝て
もらうしかなかったです」と、世話係の青年が言った。
 「仙丈には初めて来たが、途中に道標やロープなどが的確にされていて大助かりだっ
た。どこのどなたか存じませんがありがとうと言いながらここまで上ってきた。これ
らの作業はどなたがされたのか」と聞くと、世話係が「伊那営林署と我々山小屋に働
く者が、気付いた順からやっている」と答えた。
 階下で背中の荷物を下ろして、我々に提供された3階へ上がると、直ぐ目の前に甲
斐駒ケ岳(2967m)が夕日を浴びて肌色に染まって輝いていた。昔から中央線や
中央高速でふるさとに向かう車中からこの山のうねるような姿と、山頂からそぎ落と
したように切り立った摩利支天にはなじんでいた。しかしその雄姿を後ろから眺める
のは初めてだ。中央線からの黒々とした山容と対照的に上部一帯が花こう岩を露出さ
せて輝く。「日本百名山」の深田久弥が「山の団十郎」と呼んだと南アルプス市営バ
スの案内が言っていたが、そういえば何だか団十郎が大見得をきった姿に見えてくる
ようだ。
 山城が「夕日の団十郎」に向かって持参した南米の笛ケーナを吹いた。2階に落ち
着いたグループが山城の笛に誘われるように3階まで上がってきて笛に聴き入り、一
緒に甲斐駒の日没に見入った。カレーライスの夕食(年間を通してメニューはカレー
のみだそうだ)をいただいて間もなく、発電燃料節約のためか20時には消灯するとい
う。さっき話した青年が、小屋備え付けの「登山者ノート」にアンケート回答プラス
何かメッセージが欲しいと言うので、書き込む。アンケートはこの山には何回目かと
か、山小屋での食事や接客への感想などだ。続いて「何か一言欄」があったので、
 「私たち伊那谷に生まれ育った者は、朝日は南アルプスから昇り、夕日は中央アル
プスに沈んでゆく。中央アルプスは直ぐ身近にあって、いつでも近づける母親のよう
な存在だった。西駒(木曽駒ヶ岳)には高校時代、ふもとから朴歯のげた履きで登っ
た。一方、南アルプスは麓まで取りつくだけでも大変で、近寄りがたい父親のような
存在だった。近年北沢峠までバスで来られるようになったお陰で、60代になって初め
て今日、南アルプスという父親を訪ねることができた気がする。おやじよ、ありがと
う。そして登山道の整備に努めてくれた方、ありがとう」と書き込んだ。
 前夜の早い消灯のおかげで翌朝は5時前、夜が白みかけるや目が覚めた。気温4度。
簡単な朝食の間も、目は常にテレビの天気予報を追っていた。窓の外には薄日を浴び
た仙丈ヶ岳山頂が臨めるが、予報は本州南岸を低気圧が北上しているので天気は下り
坂で、やがて雨になるだろうと告げていた。雨が来る前に登頂を済ませ、早く下山し
ようという心積もりだ。九州のパーティーはガイドの掛け声で軽い体操を済ませて6
時すぎ、早々と出発していった。我々も6時半には彼らの後を追うように、馬の背ヒュ
ッテを後にする。寒い。山小屋を出て100mも登るともう、ザックザックと霜柱を
踏みつけていた。水のわき口には早くも長い長いつららが朝の薄日に輝いていた。冬
シャツの上にジャンパーを着て寒さをしのぐ。
 更に100mも登るとちょっとした平坦部に出た。道の両側をハイマツとシャクナ
ゲが囲む。振り返ると右斜めに八ケ岳の連峰が、また左前方遥かに白馬や槍、穂高な
ど北アルプスの峰々が見えた。すれ違った山岳ガイドさんに、雨が来るそうで心配だ
と言うと、「なあに、昼過ぎまでは大丈夫だ」と答えた。本当ですかと勇気百倍、前
進あるのみ。
 仙丈小屋(2900m)辺りまで来ると、目の前のハイマツから高山の鳥ホシガラ
スがしきりに飛び立った。黒い体に白いまだらが特徴だ。
 午前8時10分、遂に仙丈ヶ岳山頂に立った。山城とがっちり握手。先着していたJ
TBグループの1人に、「仙丈ヶ岳3033m」の標識をバックにカメラのシャッター
を押してもらい、お互いの健闘をねぎらい合った。傍らに「手力男命(たぢからおの
みこと)」と刻んだ人抱えもある石が鎮座していた。その昔、高天原の天の岩戸を開
けたという怪力の神様だ。誰が運び上げたのか、やはり怪力の山伏だったろうか。
 山頂からの眺めは絶景だった。眼前に鋸、甲斐駒、北岳、間ノ岳、農鳥岳が迫り、
その向こう遥かに富士山が見えた。振り返れば西駒ヶ岳・宝剣岳を主峰とする中央ア
ルプスの連山。西駒の向こうが堂々たる独立峰の御岳山。視線を右に映すと北アルプ
スの峰が互いにより添うようにまとまって見えた。天気はあいにくの曇りだが、中部
日本の主峰の神々が一堂に会して今、雲海の上で会合を開こうというたたずまいなの
だ。なんというぜいたくな景色。そうだこれは壮大な大自然が織りなす一幅の聖衆来
迎図ではないか。思わずこの大自然来迎図に合掌した。


仙丈ケ岳山頂にやっと到達した山城君(右)と筆者

・北・南・中央アルプス一望すわがふるさとの信濃山並み
・富士穂高御岳甲斐駒北岳に祝福されおり仙丈に立ちて
・雲海より霊峰一堂笑まいいて山頂に顕つ聖衆来迎

 山頂の感動に浸ること約20分。往路とは反対の尾根伝いに小仙丈ヶ岳(2855m)
経由の道を取る。左側も右側も遥か下方まで急斜面となっている。カールと呼ばれる
かつて氷河がゆっくり削っていったツメ跡だという。細道がしばしば途切れでっかい
岩に前進を阻まれる。所々の岩に赤いペンキで矢印が書かれ、「道が無ければこの岩
をよじ登ってでも前進しろ」というシグナルを送ってくれている。足を滑らしたらど
こまで落ちてゆくのだろう。ましてこんな所で雨にでも遭ったら、生きた心地もしま
いと思う。標高では確実に下っていることは納得できるが、尾根の途中にコル(窪地)
が散在し、その分をまたよじ登らなければならない。こんなコースだと知っていれば、
登頂した同じ道を戻ればよかったのにと思う。じゃあもと来た道を戻る?それがまた
厳しいのだ。ただそれだけの理由で仕方なく前進する。ああ、人生またかくのごとき
か。厳しい下り坂だが、ときどき階段の踊り場のような小さな平地がある。そこから
前方には間近に北岳、間ノ岳、農鳥岳がならび、その肩越し遥かに富士が望まれた。
絶景かな。そのたびに休んでは、山城と写真を取り合った。南方の山々は今や雨雲に
包まれた。近くの山林もようやく強い風に煽られてシラビソやカバの樹林がうねるよ
うになびく。思わずシェークピアを思い出して、
 「おう、見よ!バーナムの森がこちらに向かって動いて来るではないか!」と、俺
が大声で言うと、山城が振り向いて、「マクベスさん、芝居は後にしてさあ急いで!」
とまぜ返した。
 これらぜいたくな景色はまもなくシラビソやダケカンバが見えるころには林に隠さ
れた。高山帯から亜高山帯までたどり着いたといえる。下りとはいえ道の多くはガレ
場。ここでもハイマツの枝に助けられながら一歩一歩着地点を確かめながら下る。何
回か足を滑らせて仰向けにひっくり返ったが、背中の荷物がクッションになってくれ
て、後頭部を守ってくれた。
 山城が言う。「芥川竜之介が『侏儒の言葉』でいわく。百里の道を行く者は九十九
里をもって半ばと思え」と。
 私が答える。「芥川は兼好法師が書いた。『軒先ばかりになりて、過ちすな、心し
て下りよ』といった高名の木登りの話から、それを思い出したのかも知れん。きっと
そうだ」と。
 山頂から1時間半。やっと「大滝の頭」まで下りた。ここからは昨日登った道を下っ
てゆく。カラマツ林が見えてくると、やっとああ里山に戻ってきたなと実感する。午
後、ここまで来てようやく雨が降りだしたが、バス停のある北沢峠に確実に近づきつ
つあるので、そう心配しない。
 「ああこの林、霧が右から左へ流れて行くのが見える。これが写真に撮れるだろう
か」と山城。
 「出来上がってみると案外詰まらん写真かも知れんが、撮っていったらいい。俺は
胸に収めただけで、撮らんけど」と俺。

・乳色の靄の流れる落葉松の林をよぎるふもとへの道

 やっとの思いで北沢峠のバス停にたどり着いた。10分の待ち合わせで長野県側に下
るバスに間に合った。「南アルプス長谷村営バス」と書かれたやや小振りのバスだ。
長谷村はこの4月隣接する伊那市に合併されたが、バスのペンキ文字はまだそのまま
だ。バスの運転手にそのことを言うと、「私ら、できたらいつまでも、長谷村という
文字を残しておきたいと思っとるくらいです」と答えた。地元住民にとって「長谷」
には「市」より、「村」がよく似合うのだ。13時に峠を発った林道バスは山ひだを這
うように急速に高度を下げ、50分後にはふもとの終点に着いてしまった。ここからは
別会社の循環バスに乗って高遠駅へ、更に別のバスで伊那駅に戻った。
 東京へ戻り、ふるさとの新聞「南信州」が「南アルプスの仙丈ヶ岳(標高3033
m)や塩見岳(3047m)が初冠雪し、南信州に一足早い冬の到来を告げた」と報
じたのはそれから間もない10月8日のことだった。

 伊那谷で1泊し友人宅で五平餅やお葉漬けをご馳走になって帰京した。それから数
日後の飯田の新聞は1面トップで「南アを世界遺産登録へ/年度内に推進協設立/3
県10市町村、飯田市議会にも働きかけ」(南信州10・5付)と報じた。飯田・下伊那
地域の南アルプスといえば烏帽子岳(2726m)、小河内岳(2802m)、荒川
岳(3083m)、赤石岳(3120m)、聖岳(3013m)、上河内岳(280
3m)、光岳(2591m)など名峰の数々を擁する。私たちは伊那市の仙丈ヶ岳登
山路の整備ぶりを大いに参考にして、世界各地からの訪問者の期待にも十分応えたい
ものだ。そのとき自分には何ができるかを、最近は考えている。来年は是非、山城と
共にこの「おらほの山」を目指したいものだ。

・みすずかる信濃山並みまなうらに紫だちてどこまで続く
(了)


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