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長期入院中の身には、旧友の来訪が何よりも楽しみだ。勿論、その日の体調にも左右されるが。

昨日訪ねてくれたのは、筆者が現役記者時代10年ほど、「国会クラブ」を担当していたころ、取材窓口になっていてくれた方だ。
だから数十年来の付き合いだが、二人とも遥か昔に定年を過ぎたとあって、取材源というより「飲み友達」に近い。病院の談話室からは、右手に首相官邸や国会議事堂方面を臨む。朝夕駆け回ったオッサン時代が思い出される。そんな感傷を友人に漏らすと、国会図書館OBで、いまはソーシャルワーカーのボランティアで活躍する友人は、談話室の真正面に見下ろす米国大使館を指して、「この大使館には国会図書館に就職して最初の仕事して毎週通いました。青春時代の思い出があると言えます」と話した。長い付き合いのなかでも友人と米大使館の件は初耳だ。もっと聞きたい。以下は友人の答えだ。

当時の国会図書館にはまだ、外国新聞を買うお金がなかった。それで友人は週1回、米大使館のマップルームという部屋を訪ねて「ニューヨークタイムズ」をもらい受け、次いで千鳥ヶ淵近くに今も在る英国大使館を訪ねて「ロンドンタイムズ」(今、ザ・タイムズ)をもらってから図書館に戻り、一般の閲覧に便宜を図った。無償で受けとるのだから両大使館とも新しい新聞は無理で、日付は古くならざるを得なかった。

だから友人は平成7(1995) 年という年を忘れない。多くの国民にとっては「地下鉄サリン事件」という悪夢によって記憶されているだろうが。同年夏に発足した村山政権下で初めて外国新聞の購入費用が、補正予算で認められた。友人の米英両国大使館詣ではそこで使命を終えた。戦後50年目のことだ。新聞の片隅にも載らなかったニュースといえる。今、国会図書館新館4階の新聞課では、さらに多くの外国紙を読むことができる。おわり。

2017年7月

1日(土)
先日記録した元南ドイツ新聞東京特派員G・ヒールシャー記者の1970年記録を起こす。彼がフリーから特派員になって最初の大事件は、11月の作家三島由紀夫割腹事件だった。いち早く現場に駆けつけて彼が「自衛隊諸君に決起を呼びかける」と演説をしたバルコニーのすぐ下でメモを取っていたが、集まった当の自衛隊員たちはニヤニヤ笑っていた。まじめに耳を傾けるものは1人もなかった。これをみて記者は最初から不成功と分かったという。大阪万博は3~9月の半年間。何度か東京から出張して記事を書いたという。
 当時おれも大阪夕刊フジの嘱託記者として、会場内の記者クラブを拠点に取材していた日々を思い出す。期間中の6月、長女夏子の誕生も忘れられない。かかりつけ病院では、「予定日はまだ先なので痛くても我慢しなさい」と言う。しかしどうにも我慢できないと言ってタクシーで左京区鹿ケ谷の自宅から京都西部の病院にタクシーで向かったが、妻が「もう死にそう。運転手さん、どこでも近くの産院に車をつけてください」と訴えた。中京区の小さな町医者に飛び込むや、奥でオギャーオギャーと元気な泣き声が聞こえたっけ。夢中だったので運転手の名も産院の名も覚えていない。
 万博については全共闘系の学生が反対を叫ぶだけでなく、「反博」という闘争形態を考え出して、大阪の各所で集会や討論会を開いた。中でもその弁舌が好評で、あちこちからお呼びがかかったのが大村収容所から仮放免中だった任錫均氏だった。彼は日本人の中にある朝鮮人差別の構造を激しく攻撃した。そんなある日、彼は神戸の入管事務所に収監された。これあh大変だ。このまま大村収容所に運ばれれば、韓国に送り返され消されてしまうかもしれないと、ベ平連や全共闘系の若者が多数、神戸入管を取り囲んで、「任氏を返せ」とシュプレヒコールを叫んだ。法務省側は収監理由を「密入国者任は病気治療が必要という名目で仮放免したが、各所で演説をするなど健康そのままの振舞いだ」とした。結局、当方の医師・弁護士・学者が仲介し、本人をなるべく演説を控えさせると確約して、身柄を取り戻したのだった。(つづく)


歌集「伊那」2015年版 [短歌]

伊那」向け10首

・ 「恋の歌大いに詠め」との講演に老人歌会は戸惑うばかり

・ 台湾の寺院の甍を埋め尽くす絢爛豪華な神々の宴

・ 台北の「二・二八」の記念館殺されし人らの鬼哭啾啾(47年2月事件発生)

・ 音合わせ楽器の音色は広がりていよよ待たるる演奏の瞬間(とき)

・ 演奏を終えて指揮者が客席を振り返る間^pの瞬時の静寂

・ 今日もまた国会前を埋め尽くす人らに交じりて抗議叫びぬ

・ 「この夏を忘れないように」と呼びかける女子学生に未来の光

・ 朝礼のたびに倒れし傍にいて支えてくれし恩師を見送る(04年代田孟男氏死去)

・ 鶴見さんと「六・一五」に国会で花捧げしは十年前か(05年7月鶴見俊輔氏死去)

・ 鶴見さんに仕事課された幸せをかみしめており訃報聞きつつ

(2015.10.20記)

逃すな、臨時国会開会から逃げ回る安倍政権 [エッセー]

 逃すな、臨時国会の開会から逃げ回る安倍政権

 「お、やばい。ブン屋(新聞記者)がかぎつけたらしいぞ。ものども、ずらかれ!しかしA、覚えてろ!(といいながら、Bが舞台しもてに逃げ去る)…」というのはかなり定番の犯罪芝居のせりふ。シナリオによっては「ブン屋が」は時には「サツ(警察)が」、に置き換えられる。さて皆さん、こんな場面で「逃げ去る」のはどちらですか? 答えは犯人または分の悪い側に決まっています。

 こんな芝居もどきの攻防が今、国会で繰り広げられていると言えまいか。野党5党が憲法53条にのっとって10月21日、「秋の臨時国会召集を」と連名で要求したところ、安倍晋三政権側は「首相の外交日程が詰まっていて難しい。1~2日の閉会中審査なら検討してもいいが」と答え、難色を示した。という表現は政治の世界では事実上、拒否回答ということになろうか。しかし臨時国会で審議するべきテーマはあまりに多い。政府が「大筋合意した」と発表したTPP交渉では、貿易額で95%もの品目が関税撤廃という発表に全国農家から説明を求める声は高い。世論の反対を押し切って9月に強行可決した「戦争法案」について安倍首相は「追って丁寧に説明する」と言ったものの、全く約束を果たしていない。加えて内閣を改造したのにまだ、誰一人国会で説明もしていない。第1、「一億総活躍相」っていったい何?、新大臣に次々スキャンダルが報じられているのに説明は? 首相の外交日程が詰まっているなら、空いている日を待って審議したっていい。野党はあきらめないでほしい。(2015.10.22.記)

民主主義がちょっとばかり成長した夏 [エッセー]

 若者の登場で民主主義が成長した夏

 夏の初め、戦争法案反対国会包囲デモに出かけようとしたとき、都内の大学院生が訪ねてきたので、彼と一緒に出かけた。「デモなんて生まれてから行ったことがないので」と言ってしり込みするのを、「まあ1度見ておきなさい」と半ば案内するような形で出かけたのだが、終わって「感想は?」と聞いたときの彼の答えが、「年寄りばっかりですね」というただ一言だったのが印象的だった。筆者は「そうでもないさ。渋谷駅周辺の抗議集会には、学生の姿が多いよ」と言ってはみたが、あまり自信なかった。

 ところが夏も終わり、秋の声が忍び寄った先週、参院での安保法案強行可決に抗議する国会前集会の主役は一転して若者主体だった。この様変わりはどうだ。参院公聴会に出て、法案反対を述べたシールズ(自由と民主主義のための学生緊急行動)の大学生奥田愛基(あき)君は、「私たちは特定の支持政党を持たず、保守も革新もなくつながって5月に少数で始まった集団です」と自己紹介。「私たちが世論を作っているのではない。与党や安倍首相の理解しがたい国会答弁を見て、止むに止まれず声を上げた」と語った。その後、国会前でマイクを握って、「シールズのミキです」と自己紹介した学生は、「今の私があるのは、沢山の犠牲の上に経済成長した日本と、それらの人々によって支えられてきた平和教育があるからです。安倍首相、平和って何ですか。アメリカの選択はいつでも正しかったんですか」と語り始め、「私は行動し続けます。この夏の出来事を決して忘れません」と結んだ。

 日本の民主主義がこの夏、若者のおかげでちょっとばかり成長したなと、2015年9月18日夜、国会前で雨に打たれながら思った。
 皆さんの、今年の夏はいかがでしたか。ではますます充実の秋を!(2015.9.18・長沼記)

9月21日のあいさつ [エッセー]

欧州に散らばる親戚宛てに、ヒガンバナの写真と彼岸エッセーを英文で送った。しかし当サイトは日本語オンリーらしい。添付しても登載されない。そうそう添付したヒガンバナの写真もまた駄目らしい。残念!

Aki-no Higan's Greeting [エッセー]

Dear Helena-san and others,

How are you ? All of us are fine.
Thank you very much for you mail asking us of the Tyhoon disaster.
Yes, some cities in Ibaraki Pref. in the outskirts of Tokyo were suffered from flood of the Kinugawa-river banks. But fortunately, no harm in the Tokyo area.
Today is called Shuubun-no-hi or the Autumn Equinox Day. Mny people visit their temples or ancesters' cemetry and recall them.
The photo attached here is called a Higan-bana. Higan, which means 'another world ' or paradise, is another name of an equinox day. Bana is a sort of a liaison like French language of 'hana'which means a flower.
Higan-bana is in full bloom only a few days during autumn equinox days. Japanese have an image of Buddha sitting in the center of this flower.
I took this photo just yesterday in my housing area.
From tomorrow, the autumn begins. Sayonara from all Naganumas in Japan.

追悼 [エッセー]



<追悼> 生涯お世話になった鶴見さんが逝った (下)

                 長沼 節夫



 「日本読書新聞」事件で声明書

 きっかけは70年代ある日の雑誌「朝鮮人」の編集会議での鶴見さんの発言だった。「韓国青年同盟は凄いね。朴正煕軍事独裁に支配される民団の傘下にありながら、朴批判を強めている。正に命がけの団体だ」という。東京から来た「日本読書新聞」の編集員にそれを話すと後日、「インタビュー記事にしてほしい」と言われた。韓青同の友人に相談すると、「危険が大きいが匿名なら」と応じてくれた。それが載ると「一部から強硬な抗議が来ている。誰が書いたんだと。勿論漏らしていないが、前後策を話し合いに編集長がそちらに向かう」と言ってきた。大阪駅で会ってみると、漏らしていないどころか、強そうな青年たちが背後にいる。中から女性が進み出て、「長沼さん、また会いましたね。また誰かスパイに書かせた記事でしょう」と言った。前回、「思想の科学」記事で私を糾弾した同じ人物だった。

「確かな記事だ。しかし夕刊フジへバイトに行く時間なので、これで失礼する」と言うと全員が産経新聞社内に乗り込んできて、女性が編集部で、「皆さん、彼はスパイです」と叫んだ。デスクが「長沼に指一本触れないこと」という約束を取り付けてくれ、京都へ帰宅したが、ひと晩中監視が立った。彼らの事務所に連行されて2日目、「ある人物を面通ししてくれ」と言われ、出町柳に近い喫茶店に行くとその人物がいたが、私が直前に相談した小野弁護士に言われた通り、「私はこの方をインタビュー相手とは現認しない。後は裁判でも何でも受けて立つ」と答えると、屈強な青年に投げ飛ばされた。「諸君、やめなさい。そうだ僕が長沼さんに喋った。しかし記事は間違っているか」。「いいえ。ただ東京から来たこの女が…」と言って振り返ると、女性はいつの間にか姿を消していた。

 翌日、読書新聞から「どんな謝罪条件にも応じる」と言って来た。翌週、社告が載った。「匿名インタビューを取り消す。筆者の欺瞞性を見抜けなかった点を読者に謝罪する」とあった。そのズルさと偽善にびっくりした。

 私の話を聞いて鶴見さんや飯沼さんは怒った。そして評論家星野芳郎、歴史家井上清教授の4人連名で抗議声明を作り、活版印刷し、自分たちで全国の新聞社宛て発送してくれた。「読書新聞社の今回の行為は朝鮮問題の報道や自由な言論を阻害する。貴社におかれても留意してほしい」と。一介の大学院生兼駆け出しのルポライターに対する鶴見さんらの思いやりに感謝する。



「声なき声の会」

 60年安保闘争の高揚を見た岸信介首相の有名なコメントに反発して同年生まれた「声なき声の会」は、1人でも入れる反戦平和の会で、呼びかけ人の画家小林トミさんが代表を務めた。鶴見さんは最初からの会員で、東大生樺美智子さんの命日に当たる毎年6月15日には京都から上京して池袋での例会に欠かさず参加した。参加者は全員が現在自分の抱えている問題や悩みを話し、トミさんや鶴見さんがコメントし励ました。その後、都合のつく参加者はで地下鉄に乗って国会議事堂に移動し、樺さんが殺されたらしい南通用門で献花した。それはトミさんが亡くなる半年前、2002年まで続いた。6・15の献花は今、元全学連の闘士だった年配者や彼らの弁護士だった内田剛弘さん、日本山妙法寺の僧らに引き継がれている。鶴見さんはトミさんに贈った名文の弔辞は彼の著書で見られる。



 私たちの時事通信闘争も励ましてくれ

筆者の勤めた時事通信社では、闘う少数派の組合員は徹底的に差別され、定年までヒラ社員とされたり、処分攻撃を受けた。科学担当で反原発派のの山口俊明記者など、自費で欧州原発取材に向かったが、途中で「業務命令」で呼びかえされたりして、「バカンス裁判」を起こした。次に長期休暇を取った時には懲戒解雇され、早くに死に追い込まれた。

筆者の場合も定年までヒラだっただけでなく、「天皇・マッカーサー会見公式記録」を国会図書館で入手し、報道しようとしたが、社は「スクープに非ず」として報道しなかった。とうとう東京都労働者委員会に訴えた。このときも応援してくれたのが鶴見さんで、「天皇・マッカーサー会見録」は、50年後の今日も価値を失わない重要な資料です。時事通信社が特ダネをどのように定義するか私は知りませんが、新聞研究者のひとりとしてこれは特ダネ…大学生のころから知っている長沼節夫さんが社長側の弁護士にくるしめられているのを都労委記録で読んで、証言する」などと手書きの陳述書を送ってくれた



小田実の葬儀委員長

「べ平連」の同志だった小田実が2007年亡くなったときは、葬儀委員長という大きなリボンを着けて立ち、小田夫人と娘さんの脇にいて参列者ひとり1人に挨拶し、夫人に紹介して立ち続けた。鶴見さん既に85歳、疲れを隠せなかった。翌年、都内で開かれた「小田さん1周忌の集い」に夫人と一緒に上京されたのが、筆者がお目にかかった最後となった。

今月18日に私学会館で開かれた「小田さん8周忌」をのぞいたが、鶴見さんの姿はなかった。今思えば、鶴見さんは死の床におられたのだ。長いご恩に対し、お礼もいえなかった。ご冥福を祈る。(2015.7.30記=おわり)

追悼 [エッセー]

<追悼> 生涯お世話になった鶴見さんが逝った (中)

                     長沼 節夫

 

  雑誌「朝鮮人」を創刊

 雑誌創刊を鶴見さんと飯沼さんのどちらが言い出したのかは知らない。「朝鮮人を苦しめるこの収容所が廃止されるまで出し続けよう」と言い、表紙に「朝鮮人・大村収容所を廃止するために」と大きく刷り込んで毎号、須田剋太さんが表紙絵を無料で寄せてくれた。司馬遼太郎の「街道を行く」に挿絵を描いていた画家だ。当初、塩澤由典・石山幸基と私が、また我々が去った後は小野誠之弁護士が加わったが、中心はずっと2人で、93年、本当に収容所を廃止に追い込んでしまった。「私が目的を達成した雑誌は生涯でこれ1つ」というのが、鶴見さんの自慢だった。



糾弾会で鶴見批判を迫られ

 「思想の科学」に書かせてもらった「朝鮮69」という韓国ルポを鶴見さんは褒めてくれたが、間もなく関東から来た朴某という女性作家から、「ルポについて話してほしい」と呼び出された。講演か何かかと大阪郊外の集会所に行くと、「いいルポだ。誰の発案で?」と聞かれ、鶴見さんにと答えた。やがて部屋の空気が険しくなった。彼女が、「始めはすばらしい迫真の韓国ルポと思った。しかし怪しい。緊張した北と接する村、陸軍病院潜入報告など読むと、軍事政権下でこんな取材はできるはずがない。これはスパイにしか書けない内容だ。あなたはスパイではないのか」と言い出す。取材のいきさつなどを説明したが、会場から「怪しい奴や」「いてもうたれ!」などのヤジが飛ぶ。どうやら組織的な糾弾会に呼ばれたらしい。やがて深更、彼女は、「鶴見批判を言え。ここにテープも回してるよ」と凄んだ。

 「鶴見さんは米国プラグマチズムから多くを学んだ。一方左翼を自称する我々若者はそれに批判的だ。学生はやたらにアウフヘーベン(止揚)とか『乗り超える』とか口にするが、鶴見さんの思想の高みにまで至った者が1人でもいるか。私にとって彼は学ぶべき高みでしかない。批判などとてもとても」と答えた。阪急の1番電車が走るころ、やっと解放されて京都へ戻った。



 歴史的企てだった脱走米兵支援

鶴見さん、小田実さんが中心になって立ち上げた「べ平連」運動に直接参加することはなかったが、2人の仲間の塩沢さんから時々、「今夜米国人を2人泊めて、朝食だけ上げて」と頼まれ、2つ返事で引き受けていた。後で考えれば、ベトナム反戦の脱走米兵を私も加担していたわけだ。あの超大国アメリカに対抗して米兵に脱走を呼びかけるという、とてつもない企ては鶴見さんらべ平連の勇気と知恵の結晶だった。米兵は安保条約上の存在なので、警察は彼らにも、また彼らをかくまうべ平連に手も足も出なかった。

そんなある日、鶴見さんは私ら夫婦を自宅に呼んだ。「赤ちゃんが生まれたそうだね。もしいやでなかったら貰ってほしい」と言われ、段ボール1杯のベビーウエアだった。「うちの太郎も大きくなって今は着られないので」と言われ、ご夫妻の心遣いに感激した。

(2015.7.28.記=つづく)


追悼・鶴見俊輔さん [エッセー]

<追悼>  生涯お世話になった鶴見さんが逝った (上)

             長沼 節夫



その日(7月24日)はちょうど大阪・天満橋のエル・おおさかで、「ぶっとばせ!戦争法案」というテーマで講演をすることになっていた。目覚めてびっくりした。「朝日新聞」朝刊が1面で「鶴見俊輔さん死去/93歳『思想の科学』、べ平連」と報じていたからだ。

それで講演は、「生涯にわたってお世話になった鶴見さんの訃報を聞いて。誠に残念です。それで本日お話しする私のつたない講演を、鶴見さんに捧げたいと思います。訃報を知ってまず思い浮かんだのは、『伊勢物語』のおわりに掲げられている、『ついにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思わざりしを』といううたでした。在原業平があるときふと、『ああ俺、間もなく死ぬんだな』という気がしたので詠んだといわれているうたです」と、前置きした。



<本当はアナーキストだった?>

鶴見さんは表向きプラグマチストだ、いやリベラリストだと言われたりしますが、私は本当はアナーキストだったと思う。現代日本人でアナーキストのかどで逮捕された唯一の生き残りだったと思う。彼は米ハーバード大でプラグマチズムを学んだそうだが、当時ではまだ、「サッコとバンゼッティ事件」の余燼が覚めやらぬころだった。あるテロ事件を巡り、イタリア人移民でアナーキストだったという理由だけで捕まり、冤罪事件として世界中で助命運動が起きたのに1927年、電気椅子で処刑されてしまった。事件が起きたのはハーバード大の目と鼻の先ボストンだった。「死刑台のメロディ」という映画にもなり、77年、改めて無罪判決が出た。多感な青春前期の鶴見さんが影響を受けないはずはない。さて逮捕されたものの間もなく第2次世界大戦が勃発。服役するかわりに最後の日米交換船で帰国している。

 私が初めて鶴見さんの謦咳に接したのは、60年代、「人形の会」か「家の会」だったかどちらかの、雑誌「思想の科学」の読書会サークルだった。やがてベトナム反戦運動が高まったある日、鶴見さんから、『ベトナムからチク・ナット・ハーンという反戦仏教僧を呼んだが、案内する時間がなくなってしまった。すまないが長沼さん、広島に行ってバーバラ・レイノルズに、次いで比叡山延暦寺に行って千日回峰を終えたばかりの中野さんという高僧に引き合わせてくれないか』と、その案内を頼まれて、数日間、同師と旅をした。その後、反戦サークルで同師を囲み座談会があると、その通訳もさせられた。私が未知の言葉に出会って立ち往生すると、鶴見さんがいたずらっぽく笑って助け舟を出してくれた。



<ベトナム反戦と大村収容所>

また、「思想の科学」で思いっきり長い韓国ルポを書きなさいとも言ってくれた。しかし貧乏学生では原稿料を前借りしてもちょっと経費が足りない。それではと鶴見さんは「アサヒグラフ」の編集者に引き合わせてくれ、その両誌にルポを書くことで旅は実現することになった。

その頃、密入国後に長崎県大村収容所に収監、病気仮出所中という任錫均さんが、京都に私を訪ねてきた。「収容所の仲間が京大新聞を読んでいたので、あなたの韓国ルポを毎回楽しみにしていた」と言った。鶴見さんと、彼の親友飯沼二郎人文研助教授に相談すると、早速、二人は彼を守る運動を立ち上げようと応えてくれた。お二人は、「そもそも大村収容所の存在も許せない」という点でも一致した。(2015.7.26.記=つづく

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