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ポトナム5月号詠草 [短歌]

・「ああ悲しい」その一言が忘られず余命二カ月告げられし君
・大丈夫これで治すと励ませる丸山ワクチンに夢をあがなう
・枕辺に友の運びし九州の桜を愛でて身罷りしとぞ
・三日前枕直せば「ありがとう」とつぶやいたのが別れとなりぬ
・死に顔を仏の慈顔に変えくれし白衣の天使に礼言いそびれしが
・老人に席を譲らぬ日本をイスラム人(びと)らが「変だ」と訴う

ポトナム4月号詠草 [短歌]

ポトナム4月号詠草
・冬寒のせいにしておく怠惰かな目覚めて二時間まだ床(とこ)の中
・如月にチョコの飛び交う一(ひと)日にて世にバレンタインと人の言うなり
・バレンタイン(2月)、ホワイトデー(3月)を繰り返す悪循環を如何にとやせん
・無視・握手・抱擁いずれか決めかねつ子の妻「つわり」と初めて聞きて
・二、三分の電車遅れで大げさに謝罪放送繰り返すのはなぜ
・貫禄なり大関魁皇入りくれば会見室さえ花道に見ゆ

短歌詠草 [短歌]

ポトナム2010年2月号詠草
・ああミレナあなたは真夏のダリアです、どこを切っても水のしたたる(カフカの恋人)
・エッセーもルポもあなたの文章はそのまま短歌になりそうだね、ミレナ
・作品を俺が読んでるはずなのに作品がいつか俺を見つめる(カフカ)
・あらたまの年の始めの信州で「もう春だに」と歌友は笑まう
・信濃路はまだ雪なれど歌友らは「日差しは春」と口々に告ぐ
・思うどち炬燵囲みて蜜柑食い足触れ合いし日も遥かなり

新連載韓国ルポ 連載開始に当たって、他

<ジャーナリスト同盟報ネット連載に当たって>
 「今年は日韓100年」と呼ばれる。明治政府が1910(明治43)年、朝鮮半島の植民地支配を始めてから100年目。これを機に、筆者がこれまで書き連ねてきたルポやインタビューをネット上に再掲してゆく。筆者が初めて韓国を訪れたのは、大学生だった21歳の頃。以来これまで何度も足を運んだ。ルポの中心をなすのは主として1960~70年代の朴正煕政権と1980年代の全斗煥政権時代の韓国である。その時代は韓国に言論の自由がなく、民主運動は圧殺されていた。筆者のルポは韓国に持ち込むことが不可能だった。それだけに、今回、連載を始めることにいささかなりとも意義があろうと思われる。

月刊「現代の眼」1980年7月号所収
〔韓国情勢緊急インタビュー〕光州蜂起――終わりの始まり (上)
アジアの黙示録①
文 明子/前田康博/山川暁夫
聞き手・長沼節夫

〔インタビューの前に〕 一九八〇年五月二七日「光州大虐殺」――。韓国現体制は光州市民の抵抗を「不純分子、スパイによる計画的暴動」であり、「軍の行動は自衛措置」と称して自国民に銃剣を向けた。しかし現地日本人技術者は帰国会見で、「兵士は子供を抱いた母親とか中学生など無差別に一二、三人射殺していった。傷ついてうめいている者の首筋に銃を当ててとどめの発砲をしていた」と語る。報道管制を受けない生の証言である。やはり虐殺だ。
 韓国政府=軍部が五月一七日全土戒厳令を布告、金大中氏ら多数を連行したことで、朴大統領射殺事件以後、民主化に動くかに見えた韓国の「つかの間の春」は完全にピリオドを打たれた。これをきっかけに光州市民の怒りは爆発、「戒厳令解除、全斗煥・申鉉碻退陣、金大中氏ら釈放」を要求して起った。市民がアジア最強の軍隊の武器を奪い、(ライフル三五〇〇丁とは日本自衛隊一個師団の歩兵全員を満たす数だ)対等の停戦交渉まで行ない、「十日間の解放区」を出現させた。だが軍が制圧。暴力の論理が理性の論理をひとまず圧殺したかに見える。戒厳令を発した軍・政府の唯一の大義名分はつまるところ「北の脅威」という。しかし日中米朝の四者揃って「北の南進」を否定している。国際的には「名分なき軍政」ということになる。
 韓国激動の背景や、日米との関係、今後などについて専門家三氏に聞いた。(長沼記)

国家の正気を失わしめた軍部=前田康博(ジャーナリスト)
数年間刀を抜きっ放しの事態も……
――たて続けに韓国や米国からの外電が殺到して、外信部の元ソウル特派員としては眠られない夜でしょうね。
 前田 そうですね。しかし予想できない事態だったかというと、その反対ですね。今回韓国の内閣改造が行なわれた際、日本のかなりの新聞が「事実上の軍政へ」などという見出しで報じているのをみると、朴射殺後の半年間の韓国情勢の分析が甘いという気がする。
 軍政というのは昨年一二月一二日の段階(「粛軍クーデター」)ですでに始まっているわけで、今回軍政になったわけではない。前回の申鉉碻内閣も今回の朴忠勲内閣にしてもただ文民のマスクをかぶることにしただけで、基本的には同じパターンだ。
――今回は隠れもなき軍政というわけですね。
 前田 そう。だから「軍政色を薄めた内閣」という表現も真実に遠いんであって、軍政色をカモフラージュしているが、前内閣以上の軍政、マリオネットだ。黒子の軍部が前面に飛び出した。
 立法府(国会)はこれまで国会の意志で停止状態にあったが、今回は軍部の意志で停止状態にされたということ。そして維新政友会(韓国の大政翼賛会にあたる政党)議員が存在する国会は所詮国会ではないという多くの声を無視して維政会議員を新たに新内閣に登用している。「維新体制」の継承という意志を明確にしたわけだ。
――四月までの段階では、維政会は早晩死滅するものとされており、秒読み体制、いわば医者が脈を取っている形だった。それが急にガバッとベッドに起き上がった。
 前田 完全に維新体制の落とし子として解体する運命にあったんですよ。ところが維新体制を継承する限りは維政会も統一主体国民会議(朴体制後期では大統領は自らが三分の一を任命する同会議で選出される間接選挙で推せんされた)も存続しなければならないというのが全斗煥中将ら軍部の認識だ。
――できれば朴射殺後の今年二月に撤廃した大統領緊急措置も復活させたいところなんでしょうね。
 前田 そう。だから緊急措置に替わる戒厳令――これは李承晩大統領を継いだ張勉内閣は三ヵ月後に、また朴政権でさえ10日間で警備戒厳令にトーンダウンさせている。それからみても七ヵ月も戒厳令を続けるというのはいかにも異常だ。緊急措置に代わる伝家の宝刀をずっと抜きっ放しにしてしまったということは、今後もフィリピンのマルコス体制のように数年間刀を抜きっ放しということも考えられる。大義名分は国家安保優先ということだ。しかしこれまで戒厳令があっても反政府、反軍政、反体制気運の強い韓国のことだけに、これで戒厳令をはずしたらどうなるのかという危惧が軍部にある。
 だから桶のたがを締める方向に向かっている。おいそれと戒厳令を解除できない体質になってしまっている。これは戒厳令体制を打ち出した末期朴政権が反共法、国家保安法だけでは不安で、さらに緊急措置九号など次々に強権を発動させていったのによく似ている。しかし朴を継いだ軍部には戒厳令しか決め手がない。だからそれは相当長期存続させ、解除する時はより強い弾圧組織を用意していくだろう。戒厳令解除は、近代化を意味するよりは、よりひどい弾圧の代替措置が用意された時なのではないか。軍部は完全に力を握り全国を制圧し切ったという自信を持たない限り戒厳令を解除しないだろう。
――朴射殺後、維新の看板がはずされかけた。学生や民主勢力が戒厳令の撤廃を叫び始めた。軍の側も「一二・一二」粛軍クーデターや全斗煥のKCIA兼任やらで揺り戻しをかけたというのが、この半年間の動きだが、では、なぜいま、戒厳令なのか。
 前田 朴射殺という政変が権力内の内部分裂の結果衝撃的に起きた。それに民衆が直接的に加担できなかったことから精神的真空状態に置かれ速やかな対応ができなかった。民衆側は、韓国が初めて体験することになった平和的な政権交替に期待をかけ「今は無用な混乱を避けるためしばらく見守っていこう」という態度だった。しかし軍部は韓国民のこの自制心を逆用し、維新体制の継承、または逆コースの準備に六ヵ月間を当ててきた。学生など自体を明確に分析する能力がある層が最初に警鐘を鳴らし始め、行動として爆発させていった。六ヵ月間民主化がほとんど実現しなかったことにシビレを切らして内閣と全斗煥退陣、戒厳令解除という政治的スローガンを打ち出していったのは当然のコースだ。崔政権が韓国の外に明らかにしていった一連の民主化措置というのは基本的には維新体制をいささかも変革してない。というのは一連の獄中民主主義者の解釈や復権措置というのは朴政権一八年のうちおわりのたった五年間を支えた緊急措置第九号(七五年七月)の違反
者を対象にしたものであり、反共法や国家保安法など朴体制を支えてきた根幹にはいささかの変更もない。崔政権が韓国民主化に資するものではないということは、知識層学生らは昨年一二月の時点で判った。それが実体として一般国民にもわかってくるのに学生運動が急に高揚する五月までかかった。以上は反政府サイドの状況だ。
 政府側からみると日米などの国際情勢をも横目でにらんでいる。このところ日米とも内外情勢のために韓国ウオッチを軽くせざるを得なかった。私はイラン、アフガニスタンの
一連の事件がなかったとしたらか韓国の歩みも相当変っていたと思う。韓国軍部からみればこれは「今なら少々手荒なことをやっても米国の容喙は受けまい。今がチャンス」というヨミになる。韓国情勢に比較的批判的だったバンス国務長官退陣もあった。他方日本も
これまで米国に追随するという形ではあるにせよ一定の対韓影響力はもっていたが米国が
このような状態だから当然圧力は弱まる。そこへもってきて一六日の内閣不信任案可決で
政府・自民党はハチの巣を突ついたような騒ぎ。ソウルにいてよくわかるのは体制・反体制を問わず韓国人は日米を抜きにして経済も安保ないことをよく知っている。
 日米の対応のズレもある。米国が四月米韓安保協議を無期延期して、韓国の現状への不満を表明したのに対し日本は早々と日韓定期閣僚会議九月開催を表明。また今年になって日韓外相会談まで行なって崔政権承認のような挙に出ている。米国では国際的懸案が多すぎてニッチもサッチもいかないときに日本がその分まで加担しようとしたのか。
 日本が情勢把握をしていないかというとそうではない。一二月現在で軍政に向かうということは把んだうえで、維新体制継承支持に回り、むしろ民主勢力を牽制する側に回っている。
――金大中氏と軍部の関係はどうか。今春ソウルで金氏に会ったとき、彼は「軍部もへたに世論に挑戦はすまい」と言っていたが。
 前田 韓国で民主化ということは反軍思想の代名詞ともなる。軍部の政治への介入を排除し、政治家たちの手で政治をやろうというのだから軍部からは正面の敵が金大中氏とみえる。制服と背広の激突ともいえる。朴大統領は彼自身が軍人として金氏と対決したが、彼の死後は軍そのものの金大中氏との直接対決があらわになった。軍部の代表が常に韓国の民主主義の成熟を阻害してきたわけで、金氏でなくともシビリアンの誰かが弾圧の矢面に立たなければならなかったわけだ。五月一七日深夜金氏を拘束した戒厳軍が二二日に発表した「金氏取調べ中間捜査結果」は今後最大の火種のひとつとなる。軍部の狙いは金氏の政治生命をあらゆる法律を駆使して封殺することが目的だったようだ。だから今回の学生運動についても金氏が背後操縦者だったとして弾圧しようとしている。身体的生命さえ危ぶまれる。これさえ成功すればあとは光州で多少のダメージを受けても力で抑え込めると読んでいるのではないか。
 
  ソロバンを度外視した軍部 
前田 戒厳司令部は現在の“悪”を裁くだけでなくたとえば金大中氏の全過去なで裁こうとしている。新民党という公党まで北朝鮮の末えいのような言い方をしている。軍部や維新を否定しようという勢力をこの際一挙にまっ殺しようという意図が露骨だ。第二維新体制にとって金氏は邪魔だとしても、それに貼りつけるレッテルが極めて陳腐だ。アカであるとか民衆を扇動するとか、それが常に「北」を利するとかいう表現にすぎない。今後国家安保最優先が唱えられるだろうが、この国家も韓国という国というより軍部、という意味ではないか。そうでなければ「一二・一二」のように北との境界に張り付けてある軍隊を米国に無断で大移動させるはずがない。軍部は国家を危うくしている。
――与党の金鍾泌総裁まで逮捕されたのは。
 前田 全斗煥将軍に代表される軍部は陸士一一期生(新制の一期生)で金氏は八期生だ。朴体制の前半は金氏らの革命主体勢力が牛耳り、後半を維新勢力が支えた。。今回不正蓄財で挙げられた金鍾泌、朴鐘圭元大統領警護室長、李厚洛元KCIA部長の三人は旧体制でも実力者、長老であった点で全将軍からみれば目の上のコブだ。彼ら八期中心勢力が力をもっている限り自分らは黒子に甘んじなければならない。昨年の「一二・一二」で軍部内の先輩鄭昇和戒厳司令官、盧泰鉉国防相らの粛清は「五・一七」で残りを片づけた。金鍾泌氏逮捕は、軍部のクリーン・イメージを得ようという見えすいた意図がある。全斗煥が首相、大統領への道を歩むとすれば、与野党とも邪魔になる。四月以来全将軍らが同郷の申前首相らと共に新党結成に動くのではないかといわれている。それは現在の与党を分断して吸収し、死にかけていた維政会を取り込んで維新政党を作るのではないか。
――それにしても韓国経済はいまガタガタだ。今年の第一・四半期は一〇年ぶりでマイナス経済成長、日本資本の撤退、電気、ガスが四~六割上がってインフレは今年五割を超えそうという。失業者も八〇万人前後。もともと軍人はおカネの勘定を度外視し易いが、いったい第二維新国家を作る目算があるのだろうか。
 前田 軍部は経済を度外視してでも暴走する性格が根底にある。金大中氏のさっきのあなたへの発言もそこでこれ以上国内混乱を招けばどうなるか軍部もわかってほしい、といういわば切なる期待を表現しているわけだ。ソロバンを度外視して経済を危うくし、対外イメージを大幅にダウンさせている。
――今後の韓国の動きをどう予測されるか。
前田 三点あると思う。第一に金大中氏が朴死去後最大の政治的、身体的危機にある。金鍾泌らを含めて処遇すら知らされていない。これが今後どうなるか。また金泳三氏がどのような形で弾劾されるか。第二にソウルを除いて光州など全羅道以外で、反政府闘争が飛び火するかどうか。とくに維新出身者の多い慶尚道に波及すれば内戦状態になる。第三に米国の出方だ。マスキー新国務長官は韓国情勢に憂慮を表明しているが、それ以上具体的な動きに出るかどうかだ。これによって破綻しかけている経済の行方も左右されてくるだろうと思う。このままではテクノクラートも機能せず外交もストップしたままだ。
――軍隊よなおかつ君は滅亡への道をヒタ走るのか、ということになる。
 前田 軍政はどんな場合でも国家の正気をファナティックにする要員をはらんでいる。(五月二三日)

私の歌枕―日比谷公園 [エッセー]

「ポトナム」7月号向け小論
私の歌枕   長沼節夫
 東京都心に広がる鬱蒼とした森を擁する日比谷公園。1903(明治36)年開園というから既に107歳を迎えた。公園に沿う外堀通りを隔てて建つ帝国ホテルの脇に、この一帯の江戸時代の地図が掲げられている。それによれば日比谷公園の敷地はその昔、江戸城に隣接して各藩の広大な大名屋敷が続いていたことが分かる。日比谷公園の敷地には南部盛岡藩、有馬吹上藩、播磨三草藩、肥前佐賀藩、同唐津藩、丹波福知山藩、河内狭山藩、長州岩国藩、安芸毛利藩の各上屋敷が含まれた。それらが明治維新で取り壊され、更地とされた後、全体が陸軍練兵場に変わり、更に先に述べたように、日比谷公園になった。わが国の近代公園第一号である。同公園は日露戦争の講和条件に民衆が抗議運動に立ち上がり、戒厳令にまで至った日比谷焼き討ち事件(1905=明治38年)、避難民らの糞尿で溢れたという関東大震災(1923=大正12年)、戦後の安保闘争の先頭に立った浅沼稲次郎暗殺事件(1960=昭和35年)など世紀を画する大事件の現場であった。公園の一角、日比谷公会堂をホールに持つ市政会館には戦後まで国営の同盟通信社が置かれ、対米英宣戦布告や敗戦を告げたポツダム宣言受諾など、世紀の重大ニュースは全てここから世界に向けて発信されたのだった。また市政会館に近い日比谷野音(野外音楽堂)では年間を通じておびただしい数の市民運動や労働組合の集会が開かれており、その多くはここを出発点として国会方面へのデモ行進に移る。時移ること幾星霜。同盟通信は共同・時事の両通信社および電通に三分割されて市政会館を去り、その後に出来た全国の地域新聞が集まるミニ図書館が今、「ポトナム」誌の校正室ともなっている。
 日比谷公園開園と同時に開業したレストラン「松本楼」もまた、日本近代文芸作品のさまざまな場面に登場してきた。小説では夏目漱石の「野分」から松本清張の絶筆長編「神々の乱心」まで。詩壇では同レストランの前庭で高村光太郎夫妻がアイスクリームを食べる「智恵子抄」の一場面、映画では戦後混乱期の恋愛を描いた黒澤明の「楽しき日曜日」。貧しいが希望に溢れた男女が野音でタクトを振っておどけるシーンなども忘れがたい。公園内各所では今なお毎月のようにテレビドラマの撮影風景を見かける。
さて短歌。「日比谷公園」なる書名は筆者は寡聞にして見つけていないが、古来多数の歌人が詠んできた。その代表は若山牧水で、歌集『白梅集』(1917=大正6年)に「日比谷公園にて」と題して、次の六首を残す。
・公園に入れば先ず見ゆ白梅の塵にまみれて咲ける初花
・公園の白けわたれる砂利みちをゆき行き見たり白梅の花
・眼に見えぬ篭のなかなる鳥の身をあはれとおもへ篭のなかの鳥を
・椎や椎や家をつくらば窓といふ窓をかこみて植ゑたきこの樹
・椎の木の葉にやや赤み見ゆるぞとおもふこの日のこころのなごみ
・冬深き日比谷公園ゆき行けば楮しら梅さきゐたりけり
 「校正に参加した機会に日比谷公園を散策して詠んだ歌です」と言って最近作を披露してくれる同人諸氏も少なくない。筆者はかつて市政会館にあった通信社に勤め、定年後は前述の地域新聞図書館に詰めている。この公園は人生の半分以上を過ごした場所でもあり、ここを詠った拙作がかなりあるのも当然か。生意気な言い方かもしれないが、筆者にとって日比谷公園は自分の中で一種の「歌枕」になりつつある。ここで同人諸賢のお作を紹介したきところだが、取捨選択で礼を失するのを恐れる余り、ここでは恥を忍んで同公園を詠んだ拙作のみを掲げて、拙論の終わりとする次第である。概ね1~12月の順に並べた。
・水仙の固き芽出でて公園に春の予鈴を鳴らす一月
・足元に瑠璃の小花を見つけた日「春到来!」と手紙書き出す
・びっしりとフラミンゴ止まる形して木蓮は今開花寸前
・公園のベンチの隙間の同じ位置今年も羊蹄(ぎしぎし)顔出しており
・車輪梅顔を寄せれば遠き日に祭りで買いし肉桂水の香
・降りしきる桜吹雪に負けまいと楠落ち葉は春の競演
・緑にはこんなに種類があるんだと胸張り語るか五月の公園
・栴檀の薄紫の花房がそよぎ五月よ君来たりけり
・四十雀ツツピツツピと鳴き渡りこずえの彼方きょう五月晴れ
・テーブルに雀らあまた舞い降りて「松本楼」で共に食事す
・夾竹桃のほのかな香りに事寄せてラブレターなど書きたき日あり
・百日紅ビルの谷間の日に映えて日比谷公園九月ついたち
・ 柊がひそやかに香を送り来る十一月の日比谷公園
・ ひそやかに咲き密かに香る柊の如き少女に我はあこがる
・昨夜まで鳴きいし蟋蟀の声絶えて落ち葉踏む音のみの寂しさ
・年の瀬の日比谷公園に給食(めし)を待つ失業者の列今年は長し
(了)

ポトナム8月号詠草 [短歌]

ポトナム8月号詠草
・ 帰路独り小豆アイスを食べる癖プロレタリアの密かな愉しみ
・ 大浴場のジェット噴射に身をゆだね我もバブルになりにけるかも
・ ラ・メールの如くに街を抱きおり諏訪はラ・メール人皆優し
・ 視野の端窓の端にも水が見え諏訪は心を落ち着け呉るる
・ 小学校の塀に溢れる立ち葵子らの手を振る如く咲きおり
・ 子や孫に巨額のツケを回しつつ宴続ける国債大国


ポトナム12月号詠草 [短歌]

ポトナム12月号詠草
払われし木立の跡に曼珠沙華今年初めて姿を見せる
去年まで気付かざりしに曼珠沙華窓の向かいの小暗き土手に
その所のみにほっこり曼珠沙華胸のほむらを刺激されおり
日曜の朝鳴る花火は三段雷「運動会やるぞ」と子らに叫べり
初対面の挨拶したき気分なりまだ書かざりし漢字に出会い
右足のヒモがほどけていますよと呼び掛くる女(ひと)顔は見ざりき

ポトナム11月号詠草 [短歌]

ポトナム11月号詠草
・欠詠はすまじと思えど日は迫る焦る心を歌に詠まんか
・非才なり否怠惰なりと叱りつつ嘆きつつ詠む月例短歌
・期待していたがと過去形で言われしより話題は世間話を越えず
・父母や兄の面影探しつつ三十三間堂内行きつ戻りつ
・登ったかて何(なあ)もあらしませんと言われてほっとす太閤廟は
・外つ国の民の両耳切り持ちてここに埋めしとぞ 下句が出で来ず

ポトナム10月号詠草 [短歌]

ポトナム10月号詠草
・投獄や死刑判決拉致監禁乗り越えし人いま身罷りぬ
・ああかつて日本中がその人の無事を祈りし日の遥かなり
・「謹弔」という黒リボン胸に着けソウルの街の人美しき
・大路往く金大中氏の国葬の列に手を振り別れを告げる
・今年こそ赤石岳に登らんと思えど果たせず梅雨空見上ぐ
・仰向けとなりて羽ばたく落ち蝉が我と重なる我が秋を見る


ポトナム9月号詠草 [短歌]

ポトナム9月号詠草
ごみでしょう、いや資料だと争いつつ我が家を埋める「切り抜き」の山
次々と手に取る本がまた今日も「我れな捨てそ」と訴えて来る
ひとたびは独立するも指導者を抹殺されしウイグルの民哀れ
ウルムチでデモせし千人不明というウイグルの声にいかに答えん
シモツケのほのかな紅に事寄せて君の誕生思い出ずる日
人の道に背いたことを大声で鏡に言いてアカンベエする


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