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追悼 [エッセー]



<追悼> 生涯お世話になった鶴見さんが逝った (下)

                 長沼 節夫



 「日本読書新聞」事件で声明書

 きっかけは70年代ある日の雑誌「朝鮮人」の編集会議での鶴見さんの発言だった。「韓国青年同盟は凄いね。朴正煕軍事独裁に支配される民団の傘下にありながら、朴批判を強めている。正に命がけの団体だ」という。東京から来た「日本読書新聞」の編集員にそれを話すと後日、「インタビュー記事にしてほしい」と言われた。韓青同の友人に相談すると、「危険が大きいが匿名なら」と応じてくれた。それが載ると「一部から強硬な抗議が来ている。誰が書いたんだと。勿論漏らしていないが、前後策を話し合いに編集長がそちらに向かう」と言ってきた。大阪駅で会ってみると、漏らしていないどころか、強そうな青年たちが背後にいる。中から女性が進み出て、「長沼さん、また会いましたね。また誰かスパイに書かせた記事でしょう」と言った。前回、「思想の科学」記事で私を糾弾した同じ人物だった。

「確かな記事だ。しかし夕刊フジへバイトに行く時間なので、これで失礼する」と言うと全員が産経新聞社内に乗り込んできて、女性が編集部で、「皆さん、彼はスパイです」と叫んだ。デスクが「長沼に指一本触れないこと」という約束を取り付けてくれ、京都へ帰宅したが、ひと晩中監視が立った。彼らの事務所に連行されて2日目、「ある人物を面通ししてくれ」と言われ、出町柳に近い喫茶店に行くとその人物がいたが、私が直前に相談した小野弁護士に言われた通り、「私はこの方をインタビュー相手とは現認しない。後は裁判でも何でも受けて立つ」と答えると、屈強な青年に投げ飛ばされた。「諸君、やめなさい。そうだ僕が長沼さんに喋った。しかし記事は間違っているか」。「いいえ。ただ東京から来たこの女が…」と言って振り返ると、女性はいつの間にか姿を消していた。

 翌日、読書新聞から「どんな謝罪条件にも応じる」と言って来た。翌週、社告が載った。「匿名インタビューを取り消す。筆者の欺瞞性を見抜けなかった点を読者に謝罪する」とあった。そのズルさと偽善にびっくりした。

 私の話を聞いて鶴見さんや飯沼さんは怒った。そして評論家星野芳郎、歴史家井上清教授の4人連名で抗議声明を作り、活版印刷し、自分たちで全国の新聞社宛て発送してくれた。「読書新聞社の今回の行為は朝鮮問題の報道や自由な言論を阻害する。貴社におかれても留意してほしい」と。一介の大学院生兼駆け出しのルポライターに対する鶴見さんらの思いやりに感謝する。



「声なき声の会」

 60年安保闘争の高揚を見た岸信介首相の有名なコメントに反発して同年生まれた「声なき声の会」は、1人でも入れる反戦平和の会で、呼びかけ人の画家小林トミさんが代表を務めた。鶴見さんは最初からの会員で、東大生樺美智子さんの命日に当たる毎年6月15日には京都から上京して池袋での例会に欠かさず参加した。参加者は全員が現在自分の抱えている問題や悩みを話し、トミさんや鶴見さんがコメントし励ました。その後、都合のつく参加者はで地下鉄に乗って国会議事堂に移動し、樺さんが殺されたらしい南通用門で献花した。それはトミさんが亡くなる半年前、2002年まで続いた。6・15の献花は今、元全学連の闘士だった年配者や彼らの弁護士だった内田剛弘さん、日本山妙法寺の僧らに引き継がれている。鶴見さんはトミさんに贈った名文の弔辞は彼の著書で見られる。



 私たちの時事通信闘争も励ましてくれ

筆者の勤めた時事通信社では、闘う少数派の組合員は徹底的に差別され、定年までヒラ社員とされたり、処分攻撃を受けた。科学担当で反原発派のの山口俊明記者など、自費で欧州原発取材に向かったが、途中で「業務命令」で呼びかえされたりして、「バカンス裁判」を起こした。次に長期休暇を取った時には懲戒解雇され、早くに死に追い込まれた。

筆者の場合も定年までヒラだっただけでなく、「天皇・マッカーサー会見公式記録」を国会図書館で入手し、報道しようとしたが、社は「スクープに非ず」として報道しなかった。とうとう東京都労働者委員会に訴えた。このときも応援してくれたのが鶴見さんで、「天皇・マッカーサー会見録」は、50年後の今日も価値を失わない重要な資料です。時事通信社が特ダネをどのように定義するか私は知りませんが、新聞研究者のひとりとしてこれは特ダネ…大学生のころから知っている長沼節夫さんが社長側の弁護士にくるしめられているのを都労委記録で読んで、証言する」などと手書きの陳述書を送ってくれた



小田実の葬儀委員長

「べ平連」の同志だった小田実が2007年亡くなったときは、葬儀委員長という大きなリボンを着けて立ち、小田夫人と娘さんの脇にいて参列者ひとり1人に挨拶し、夫人に紹介して立ち続けた。鶴見さん既に85歳、疲れを隠せなかった。翌年、都内で開かれた「小田さん1周忌の集い」に夫人と一緒に上京されたのが、筆者がお目にかかった最後となった。

今月18日に私学会館で開かれた「小田さん8周忌」をのぞいたが、鶴見さんの姿はなかった。今思えば、鶴見さんは死の床におられたのだ。長いご恩に対し、お礼もいえなかった。ご冥福を祈る。(2015.7.30記=おわり)

追悼 [エッセー]

<追悼> 生涯お世話になった鶴見さんが逝った (中)

                     長沼 節夫

 

  雑誌「朝鮮人」を創刊

 雑誌創刊を鶴見さんと飯沼さんのどちらが言い出したのかは知らない。「朝鮮人を苦しめるこの収容所が廃止されるまで出し続けよう」と言い、表紙に「朝鮮人・大村収容所を廃止するために」と大きく刷り込んで毎号、須田剋太さんが表紙絵を無料で寄せてくれた。司馬遼太郎の「街道を行く」に挿絵を描いていた画家だ。当初、塩澤由典・石山幸基と私が、また我々が去った後は小野誠之弁護士が加わったが、中心はずっと2人で、93年、本当に収容所を廃止に追い込んでしまった。「私が目的を達成した雑誌は生涯でこれ1つ」というのが、鶴見さんの自慢だった。



糾弾会で鶴見批判を迫られ

 「思想の科学」に書かせてもらった「朝鮮69」という韓国ルポを鶴見さんは褒めてくれたが、間もなく関東から来た朴某という女性作家から、「ルポについて話してほしい」と呼び出された。講演か何かかと大阪郊外の集会所に行くと、「いいルポだ。誰の発案で?」と聞かれ、鶴見さんにと答えた。やがて部屋の空気が険しくなった。彼女が、「始めはすばらしい迫真の韓国ルポと思った。しかし怪しい。緊張した北と接する村、陸軍病院潜入報告など読むと、軍事政権下でこんな取材はできるはずがない。これはスパイにしか書けない内容だ。あなたはスパイではないのか」と言い出す。取材のいきさつなどを説明したが、会場から「怪しい奴や」「いてもうたれ!」などのヤジが飛ぶ。どうやら組織的な糾弾会に呼ばれたらしい。やがて深更、彼女は、「鶴見批判を言え。ここにテープも回してるよ」と凄んだ。

 「鶴見さんは米国プラグマチズムから多くを学んだ。一方左翼を自称する我々若者はそれに批判的だ。学生はやたらにアウフヘーベン(止揚)とか『乗り超える』とか口にするが、鶴見さんの思想の高みにまで至った者が1人でもいるか。私にとって彼は学ぶべき高みでしかない。批判などとてもとても」と答えた。阪急の1番電車が走るころ、やっと解放されて京都へ戻った。



 歴史的企てだった脱走米兵支援

鶴見さん、小田実さんが中心になって立ち上げた「べ平連」運動に直接参加することはなかったが、2人の仲間の塩沢さんから時々、「今夜米国人を2人泊めて、朝食だけ上げて」と頼まれ、2つ返事で引き受けていた。後で考えれば、ベトナム反戦の脱走米兵を私も加担していたわけだ。あの超大国アメリカに対抗して米兵に脱走を呼びかけるという、とてつもない企ては鶴見さんらべ平連の勇気と知恵の結晶だった。米兵は安保条約上の存在なので、警察は彼らにも、また彼らをかくまうべ平連に手も足も出なかった。

そんなある日、鶴見さんは私ら夫婦を自宅に呼んだ。「赤ちゃんが生まれたそうだね。もしいやでなかったら貰ってほしい」と言われ、段ボール1杯のベビーウエアだった。「うちの太郎も大きくなって今は着られないので」と言われ、ご夫妻の心遣いに感激した。

(2015.7.28.記=つづく)


追悼・鶴見俊輔さん [エッセー]

<追悼>  生涯お世話になった鶴見さんが逝った (上)

             長沼 節夫



その日(7月24日)はちょうど大阪・天満橋のエル・おおさかで、「ぶっとばせ!戦争法案」というテーマで講演をすることになっていた。目覚めてびっくりした。「朝日新聞」朝刊が1面で「鶴見俊輔さん死去/93歳『思想の科学』、べ平連」と報じていたからだ。

それで講演は、「生涯にわたってお世話になった鶴見さんの訃報を聞いて。誠に残念です。それで本日お話しする私のつたない講演を、鶴見さんに捧げたいと思います。訃報を知ってまず思い浮かんだのは、『伊勢物語』のおわりに掲げられている、『ついにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思わざりしを』といううたでした。在原業平があるときふと、『ああ俺、間もなく死ぬんだな』という気がしたので詠んだといわれているうたです」と、前置きした。



<本当はアナーキストだった?>

鶴見さんは表向きプラグマチストだ、いやリベラリストだと言われたりしますが、私は本当はアナーキストだったと思う。現代日本人でアナーキストのかどで逮捕された唯一の生き残りだったと思う。彼は米ハーバード大でプラグマチズムを学んだそうだが、当時ではまだ、「サッコとバンゼッティ事件」の余燼が覚めやらぬころだった。あるテロ事件を巡り、イタリア人移民でアナーキストだったという理由だけで捕まり、冤罪事件として世界中で助命運動が起きたのに1927年、電気椅子で処刑されてしまった。事件が起きたのはハーバード大の目と鼻の先ボストンだった。「死刑台のメロディ」という映画にもなり、77年、改めて無罪判決が出た。多感な青春前期の鶴見さんが影響を受けないはずはない。さて逮捕されたものの間もなく第2次世界大戦が勃発。服役するかわりに最後の日米交換船で帰国している。

 私が初めて鶴見さんの謦咳に接したのは、60年代、「人形の会」か「家の会」だったかどちらかの、雑誌「思想の科学」の読書会サークルだった。やがてベトナム反戦運動が高まったある日、鶴見さんから、『ベトナムからチク・ナット・ハーンという反戦仏教僧を呼んだが、案内する時間がなくなってしまった。すまないが長沼さん、広島に行ってバーバラ・レイノルズに、次いで比叡山延暦寺に行って千日回峰を終えたばかりの中野さんという高僧に引き合わせてくれないか』と、その案内を頼まれて、数日間、同師と旅をした。その後、反戦サークルで同師を囲み座談会があると、その通訳もさせられた。私が未知の言葉に出会って立ち往生すると、鶴見さんがいたずらっぽく笑って助け舟を出してくれた。



<ベトナム反戦と大村収容所>

また、「思想の科学」で思いっきり長い韓国ルポを書きなさいとも言ってくれた。しかし貧乏学生では原稿料を前借りしてもちょっと経費が足りない。それではと鶴見さんは「アサヒグラフ」の編集者に引き合わせてくれ、その両誌にルポを書くことで旅は実現することになった。

その頃、密入国後に長崎県大村収容所に収監、病気仮出所中という任錫均さんが、京都に私を訪ねてきた。「収容所の仲間が京大新聞を読んでいたので、あなたの韓国ルポを毎回楽しみにしていた」と言った。鶴見さんと、彼の親友飯沼二郎人文研助教授に相談すると、早速、二人は彼を守る運動を立ち上げようと応えてくれた。お二人は、「そもそも大村収容所の存在も許せない」という点でも一致した。(2015.7.26.記=つづく

警察は安倍より話せる? [エッセー]

「反安保」国会行動で数十年来の盛り上がり

 「戦争法案廃案!安倍政権退陣!8.30国会10万人全国100万人大行動!」という長い名前の集会に出かけた。空模様も怪しいしどうしようかという、弱い心が始めのうち、自分の内部で勝っていたが、ネットメールをチェックしているうち、どなたかの、「今日の天気は変えられません。しかし明日の政治は変えられます」という呼びかけに出会って、背中を押されたような気がしたので。

 早くも地下鉄「国会議事堂前」駅で下車したときから、構内は凄い人混みで身動きも取れない。人数の多さもさることながら、お巡りさんが意地悪して議事堂側の地上への通路に阻止線を張っていたからだ。しかし乗客の抗議に押されて、遂に突破された。議員会館前の歩道も参加者の人波でなかなか前に行けない。それでも少しずつかき分け、1時間以上かけて国会議事堂正面に出た。おお、凄い光景が!議事堂正面からお壕や警視庁に向けて緩やかに傾斜してゆく50メートル道路が参加者の人波で覆われているではないか。かなり昔の「50年安保反対闘争」以来の「解放区」が出現していた。

 勿論、警察側が人々を歩道だけに押し込めようとしたら、流血の惨事を引き起こしていたに違いない。しかし最悪の事態を避ける柔軟さが、主催者側にも警察側にもあったからこそ、実現した「解放区」だろう。この柔軟さを決して反対意見を聞かない安倍政権も学ぶべきだ。土砂降りにならず優しく降ってくれた天の配慮にも感謝した。(2015.9.3 記す)

[] [エッセー]

日本の今は「アスピリン・エイジ」に似て……

 台風がらみの土砂降りの東京・日比谷公園に集まった5500人が9月9日午後、「戦争法案反対」「雨にも負けず、安倍にも負けず」と叫んでいた。どの世論調査でも反対が賛成を上回る「平和安保」という名の「戦争法案」が、国会を通過・成立しようとしている。許せないことだ。巨大与党が総裁選を実施しようとしたが、強力な総裁の前に、対抗馬として立とうとしたライバルは十分な推薦人が集まらず無投票に。ライバル女性は会見で、「全会一致は無効と同じ」とつぶやいた。日本は今、第1次と第2次2つの世界大戦を挟んだ時代の米国の、いわゆる「アスピリン・エイジ(時代)」を追体験しているのかも知れない。この言葉の名付け親はイザベル・レイトン編『アスピリン・エイジ』(早川書房)に由来する。中央ではまったく無能な大統領がもてはやされ、やがて消えていった。地方ではアル・カポネらやくざがのさばっていた。ボストンで捕まった無政府主義者について、多くの人は「無実だ」と答えたが、権力側は「無実を信じる人々の陰には、有罪と信じるもっと多数の人々がいる」という論理を利かせて、処刑してしまった。かくのごとく正気を失ったアメリカがある日、ふと目覚めた。それは日本が真珠湾を奇襲し、対米宣戦布告した日だったという。この狂気の時代にアメリカが生み出したのはたった1つ、万能薬のアスピリンだったという。この時代に生まれた多数の優れたルポルタージュを集めたのが冒頭に触れたこの本だ。歴史は繰り返すというがどこか似ている。ジャーナリストは今、日本版「アスピリン・エイジ」を書く時代に差し掛かっている。(

近日再開 [エッセー]

みなさん、おげんきですか。長い間ご無沙汰しました。あすから、再開します。よろしく。

共通テーマ:趣味・カルチャー

歌誌ポトナム2010年6月号向けエッセー [エッセー]

短歌同人誌ポトナム「回転扉」6月号向け。
テーマ=北原白秋の短歌「草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり」を鑑賞する
(見出し)白秋のパレット 長沼節夫
  北原白秋。とりわけ青年時代の作品は様々な色彩感覚に溢れている。それはさながら水彩画家のパレットだ。
 短歌だけではない。例えば詩。「色紅くかなしき苺、葉かげより今日も呼びつる/『口にな入れそ』(『思ひ出』)また例えば唱歌。「利休鼠の雨がふる」(城ヶ島の雨)また例えば散文。「遂には皐月の薄紫の桐の花の如くにや消えはつべき」(『桐の花』巻末)そしてとりわけ第1歌集『桐の花』作品群。「黄なる月の出」「薄青き新聞紙」「ヒヤシンス薄紫に」「たんぽぽの白きを」「あかき夕暮れ」「くれなゐのにくき唇」「青きリキュウル」「黒き猫」「紫の日傘」など何とおびただしい色の洪水であろうか。『桐の花』所収約400首中に色彩が登場するのは何首、などと数えて論じた人もいるに違いない。しかし白秋は後年になるほど色彩から遠ざかり、遂には視力を失って果てる。色彩は白秋の青春と殆ど同義語と言える。
 さて今回の「草わかば~」である。作者は春の芝生に寝そべって赤の色鉛筆を削っている。今は昔、鉛筆を削ること自体、一種心ときめく時間だった記憶がある。凡人の小生はそれで終ったが流石、白秋は違う。若草の上に赤の芯を削り散らして、鮮やかな色の対照をいとおしんでさえいる。白日の下にあっては官能的な幻想さえ感じさせるのだ。おわり。

私の歌枕―日比谷公園 [エッセー]

「ポトナム」7月号向け小論
私の歌枕   長沼節夫
 東京都心に広がる鬱蒼とした森を擁する日比谷公園。1903(明治36)年開園というから既に107歳を迎えた。公園に沿う外堀通りを隔てて建つ帝国ホテルの脇に、この一帯の江戸時代の地図が掲げられている。それによれば日比谷公園の敷地はその昔、江戸城に隣接して各藩の広大な大名屋敷が続いていたことが分かる。日比谷公園の敷地には南部盛岡藩、有馬吹上藩、播磨三草藩、肥前佐賀藩、同唐津藩、丹波福知山藩、河内狭山藩、長州岩国藩、安芸毛利藩の各上屋敷が含まれた。それらが明治維新で取り壊され、更地とされた後、全体が陸軍練兵場に変わり、更に先に述べたように、日比谷公園になった。わが国の近代公園第一号である。同公園は日露戦争の講和条件に民衆が抗議運動に立ち上がり、戒厳令にまで至った日比谷焼き討ち事件(1905=明治38年)、避難民らの糞尿で溢れたという関東大震災(1923=大正12年)、戦後の安保闘争の先頭に立った浅沼稲次郎暗殺事件(1960=昭和35年)など世紀を画する大事件の現場であった。公園の一角、日比谷公会堂をホールに持つ市政会館には戦後まで国営の同盟通信社が置かれ、対米英宣戦布告や敗戦を告げたポツダム宣言受諾など、世紀の重大ニュースは全てここから世界に向けて発信されたのだった。また市政会館に近い日比谷野音(野外音楽堂)では年間を通じておびただしい数の市民運動や労働組合の集会が開かれており、その多くはここを出発点として国会方面へのデモ行進に移る。時移ること幾星霜。同盟通信は共同・時事の両通信社および電通に三分割されて市政会館を去り、その後に出来た全国の地域新聞が集まるミニ図書館が今、「ポトナム」誌の校正室ともなっている。
 日比谷公園開園と同時に開業したレストラン「松本楼」もまた、日本近代文芸作品のさまざまな場面に登場してきた。小説では夏目漱石の「野分」から松本清張の絶筆長編「神々の乱心」まで。詩壇では同レストランの前庭で高村光太郎夫妻がアイスクリームを食べる「智恵子抄」の一場面、映画では戦後混乱期の恋愛を描いた黒澤明の「楽しき日曜日」。貧しいが希望に溢れた男女が野音でタクトを振っておどけるシーンなども忘れがたい。公園内各所では今なお毎月のようにテレビドラマの撮影風景を見かける。
さて短歌。「日比谷公園」なる書名は筆者は寡聞にして見つけていないが、古来多数の歌人が詠んできた。その代表は若山牧水で、歌集『白梅集』(1917=大正6年)に「日比谷公園にて」と題して、次の六首を残す。
・公園に入れば先ず見ゆ白梅の塵にまみれて咲ける初花
・公園の白けわたれる砂利みちをゆき行き見たり白梅の花
・眼に見えぬ篭のなかなる鳥の身をあはれとおもへ篭のなかの鳥を
・椎や椎や家をつくらば窓といふ窓をかこみて植ゑたきこの樹
・椎の木の葉にやや赤み見ゆるぞとおもふこの日のこころのなごみ
・冬深き日比谷公園ゆき行けば楮しら梅さきゐたりけり
 「校正に参加した機会に日比谷公園を散策して詠んだ歌です」と言って最近作を披露してくれる同人諸氏も少なくない。筆者はかつて市政会館にあった通信社に勤め、定年後は前述の地域新聞図書館に詰めている。この公園は人生の半分以上を過ごした場所でもあり、ここを詠った拙作がかなりあるのも当然か。生意気な言い方かもしれないが、筆者にとって日比谷公園は自分の中で一種の「歌枕」になりつつある。ここで同人諸賢のお作を紹介したきところだが、取捨選択で礼を失するのを恐れる余り、ここでは恥を忍んで同公園を詠んだ拙作のみを掲げて、拙論の終わりとする次第である。概ね1~12月の順に並べた。
・水仙の固き芽出でて公園に春の予鈴を鳴らす一月
・足元に瑠璃の小花を見つけた日「春到来!」と手紙書き出す
・びっしりとフラミンゴ止まる形して木蓮は今開花寸前
・公園のベンチの隙間の同じ位置今年も羊蹄(ぎしぎし)顔出しており
・車輪梅顔を寄せれば遠き日に祭りで買いし肉桂水の香
・降りしきる桜吹雪に負けまいと楠落ち葉は春の競演
・緑にはこんなに種類があるんだと胸張り語るか五月の公園
・栴檀の薄紫の花房がそよぎ五月よ君来たりけり
・四十雀ツツピツツピと鳴き渡りこずえの彼方きょう五月晴れ
・テーブルに雀らあまた舞い降りて「松本楼」で共に食事す
・夾竹桃のほのかな香りに事寄せてラブレターなど書きたき日あり
・百日紅ビルの谷間の日に映えて日比谷公園九月ついたち
・ 柊がひそやかに香を送り来る十一月の日比谷公園
・ ひそやかに咲き密かに香る柊の如き少女に我はあこがる
・昨夜まで鳴きいし蟋蟀の声絶えて落ち葉踏む音のみの寂しさ
・年の瀬の日比谷公園に給食(めし)を待つ失業者の列今年は長し
(了)

南アルプスの世界自然遺産登録にエール  今回、仙丈ヶ岳に登ってきました [エッセー]

 9月の末、琉球大学で長く物理を講じる畏友・山城健が久しぶり上京した。この好
機を捕らえ、二人で南アルプスの主峰の一つである仙丈ヶ岳(3033m)を目指し
た。山城は記者が飯田西中に学んだ時代以来の友だから、交友既に半世紀に及ぶ。郵
便友の会と学校からの紹介で文通が始まった。当時の沖繩はまだ米軍施政下の「外国」
扱いで、「琉球郵便」とドル表示で印刷された切手からして物珍しかった。高校卒業
後、「日本留学」がかなって上京。内地で初めて迎える冬休みを飯田で過ごそうとやっ
て来たときが、彼との初対面だった。浅黒い顔にきれいな瞳と長いまつげの典型的な
うちなんちゅー(沖繩人)は飯田で、生まれて初めて見る雪が嬉しいと言って戯れ、
家族の話す飯田弁が面白いなどと、何にでも興味を示した。
 大学生活の後半、今度はこちらが沖繩を訪問した。米軍支配は依然として続いてお
り、パスポートを取得しての渡航だった。今度は山城や彼の家族が南は摩文仁の丘か
ら北は遠く奄美諸島与論島を望むことのできる辺戸岬まで沖縄本島全土を案内してく
れた。すでに本土復帰は射程内にあった。各所に貼られた「標準語話す日本のよい子
供」といったステッカーが眩しかった。ひと足早く卒業した山城は初め、読谷高校の
教師をした。国費留学生は帰郷後の一定期間「公職」に就くことが義務となっており、
彼は教師の道を選んだ。そのお陰で沖繩では彼の学校に泊めてもらったり、多くの高
校生から話を聞くことができた。面積で日本国土の0・6%にすぎない沖繩が在日米
軍基地の75%を担わされている沖繩。読谷村は村の大部分が飛行場に奪われ、授業は
頻繁に爆音に中断させられていた。「爆音がないときまで家族と大声で話す癖がつい
た」と語った女生徒の言葉がが忘れられない。山城の案内は私が大学新聞に15回連載
した「沖繩よあなたは」に結実した。
 あれから50年。交友は続いたが登山に同行するのは今回が初めてだった。といって
も山城は学生時代から本土の山に親しみ、最高峰の富士山、第2位の北岳など高山に
何度も登っていたが、私は3千m級は60代にして初めてなので、山城に従って登る積
もりだった。
 早朝7時新宿発の特急「あずさ」で甲府へ。駅前で朝食を済ませて山梨交通バスで
南アルプスのふもとの広河原へ。南アルプス林道(かつてはスーパー林道と呼ばれた)
は自然保護の観点から広河原から先、一般車両は乗り入れ禁止とされ、登山者は南ア
ルプス市営バスに乗り換えなければならない。ここからバスは一気に標高を増し、シ
ラカバやカツラがわずかに黄葉を加える。やがて切り立った斜面の間に仙丈の峰が瞬
間望めた。「南アルプスの女王」と呼ばれる仙丈。山容は一見優しいが、本当はどう
だろうか。胸が躍る。やがて13時半甲州と信州の境界に位置する北沢峠に着いた。既
に標高2030m地点という。
 山城が土地の人に大平山荘経由、8合目の馬の背ヒュッテ(2640m)に向かう
登山口を尋ねると、「え、ここで1泊せずに今から馬の背? その回り道だと途中で
暗くなるかも知れん。それよりいきなりきつい登りになるけど、ここの登山口からす
ぐに出発したほうがいいよ」と言われたそうだ。休む間もなく出発だ。カラマツの樹
林帯が間もなくシラビソ林にさらにダケカンバへと変化するころから道の行く手には
大きな岩が立ちはだかるように上へ上へと続いていた。岩をよじ登るように越えると
き、ハイマツの枝やら根っこをつかむことができると、本当にありがたい。道沿いに
これらの根っこがなかったら、どれだけ難儀するか分からぬ。まさに神様仏様ハイマ
ツ様である。

・ハイマツや古木にすがりて登るなり ゆめ自力でなどと思い上がるな
・延べくれし仏のみ手とまごうなりガレ場ですがるハイマツの枝

 出発して2時間余り。ようやく「5合目・大滝の頭(かしら)」という標識のある
ちょっとした平地にたどり着いた。標高2520m。道をそのままたどれば小仙丈に
至るというが、そこに至る前に日が暮れよう。二股道を右に取って沢伝いに進むとは
るか彼方に馬の背ヒュッテの赤い屋根が見えてほっとする。このルートでは幾つかの
渓流をまたぐ。既に花の季節を過ぎた初秋の今となっては、トリカブトの濃い紫も貴
重な彩りである。渓流に足を取られそうになる所に張られた黄色のナイロンザイルが
ありがたい。そしてケモノ道に迷い込みそうな地点に打ち込まれた「伊那営林署」と
書かれた矢印の標識も大助かりだった。まだ渓流の水が沁みだして滑りやすい個所に
は小振りの丸太を打ち込んで、階段状の登山路を作ってくれている。かくて17時頃、
ようやく馬の背ヒュッテにたどり着いた。まだ日没にはかなり時間があるとはいえ、
山は日が陰りだすとたちまち暗く感じ、また気温が下がるので、明るいうちに着けた
ことは大きい。季節外れのウイークデーとあって、この日の山小屋の客は、福岡県か
らやって来たというJTBツアー・グループと我々2人のみだった。皆我らと同世代
に見える。
 「夏の最盛期には150人のお客さんがありました。もう全員直立不動状態で寝て
もらうしかなかったです」と、世話係の青年が言った。
 「仙丈には初めて来たが、途中に道標やロープなどが的確にされていて大助かりだっ
た。どこのどなたか存じませんがありがとうと言いながらここまで上ってきた。これ
らの作業はどなたがされたのか」と聞くと、世話係が「伊那営林署と我々山小屋に働
く者が、気付いた順からやっている」と答えた。
 階下で背中の荷物を下ろして、我々に提供された3階へ上がると、直ぐ目の前に甲
斐駒ケ岳(2967m)が夕日を浴びて肌色に染まって輝いていた。昔から中央線や
中央高速でふるさとに向かう車中からこの山のうねるような姿と、山頂からそぎ落と
したように切り立った摩利支天にはなじんでいた。しかしその雄姿を後ろから眺める
のは初めてだ。中央線からの黒々とした山容と対照的に上部一帯が花こう岩を露出さ
せて輝く。「日本百名山」の深田久弥が「山の団十郎」と呼んだと南アルプス市営バ
スの案内が言っていたが、そういえば何だか団十郎が大見得をきった姿に見えてくる
ようだ。
 山城が「夕日の団十郎」に向かって持参した南米の笛ケーナを吹いた。2階に落ち
着いたグループが山城の笛に誘われるように3階まで上がってきて笛に聴き入り、一
緒に甲斐駒の日没に見入った。カレーライスの夕食(年間を通してメニューはカレー
のみだそうだ)をいただいて間もなく、発電燃料節約のためか20時には消灯するとい
う。さっき話した青年が、小屋備え付けの「登山者ノート」にアンケート回答プラス
何かメッセージが欲しいと言うので、書き込む。アンケートはこの山には何回目かと
か、山小屋での食事や接客への感想などだ。続いて「何か一言欄」があったので、
 「私たち伊那谷に生まれ育った者は、朝日は南アルプスから昇り、夕日は中央アル
プスに沈んでゆく。中央アルプスは直ぐ身近にあって、いつでも近づける母親のよう
な存在だった。西駒(木曽駒ヶ岳)には高校時代、ふもとから朴歯のげた履きで登っ
た。一方、南アルプスは麓まで取りつくだけでも大変で、近寄りがたい父親のような
存在だった。近年北沢峠までバスで来られるようになったお陰で、60代になって初め
て今日、南アルプスという父親を訪ねることができた気がする。おやじよ、ありがと
う。そして登山道の整備に努めてくれた方、ありがとう」と書き込んだ。
 前夜の早い消灯のおかげで翌朝は5時前、夜が白みかけるや目が覚めた。気温4度。
簡単な朝食の間も、目は常にテレビの天気予報を追っていた。窓の外には薄日を浴び
た仙丈ヶ岳山頂が臨めるが、予報は本州南岸を低気圧が北上しているので天気は下り
坂で、やがて雨になるだろうと告げていた。雨が来る前に登頂を済ませ、早く下山し
ようという心積もりだ。九州のパーティーはガイドの掛け声で軽い体操を済ませて6
時すぎ、早々と出発していった。我々も6時半には彼らの後を追うように、馬の背ヒュ
ッテを後にする。寒い。山小屋を出て100mも登るともう、ザックザックと霜柱を
踏みつけていた。水のわき口には早くも長い長いつららが朝の薄日に輝いていた。冬
シャツの上にジャンパーを着て寒さをしのぐ。
 更に100mも登るとちょっとした平坦部に出た。道の両側をハイマツとシャクナ
ゲが囲む。振り返ると右斜めに八ケ岳の連峰が、また左前方遥かに白馬や槍、穂高な
ど北アルプスの峰々が見えた。すれ違った山岳ガイドさんに、雨が来るそうで心配だ
と言うと、「なあに、昼過ぎまでは大丈夫だ」と答えた。本当ですかと勇気百倍、前
進あるのみ。
 仙丈小屋(2900m)辺りまで来ると、目の前のハイマツから高山の鳥ホシガラ
スがしきりに飛び立った。黒い体に白いまだらが特徴だ。
 午前8時10分、遂に仙丈ヶ岳山頂に立った。山城とがっちり握手。先着していたJ
TBグループの1人に、「仙丈ヶ岳3033m」の標識をバックにカメラのシャッター
を押してもらい、お互いの健闘をねぎらい合った。傍らに「手力男命(たぢからおの
みこと)」と刻んだ人抱えもある石が鎮座していた。その昔、高天原の天の岩戸を開
けたという怪力の神様だ。誰が運び上げたのか、やはり怪力の山伏だったろうか。
 山頂からの眺めは絶景だった。眼前に鋸、甲斐駒、北岳、間ノ岳、農鳥岳が迫り、
その向こう遥かに富士山が見えた。振り返れば西駒ヶ岳・宝剣岳を主峰とする中央ア
ルプスの連山。西駒の向こうが堂々たる独立峰の御岳山。視線を右に映すと北アルプ
スの峰が互いにより添うようにまとまって見えた。天気はあいにくの曇りだが、中部
日本の主峰の神々が一堂に会して今、雲海の上で会合を開こうというたたずまいなの
だ。なんというぜいたくな景色。そうだこれは壮大な大自然が織りなす一幅の聖衆来
迎図ではないか。思わずこの大自然来迎図に合掌した。


仙丈ケ岳山頂にやっと到達した山城君(右)と筆者

・北・南・中央アルプス一望すわがふるさとの信濃山並み
・富士穂高御岳甲斐駒北岳に祝福されおり仙丈に立ちて
・雲海より霊峰一堂笑まいいて山頂に顕つ聖衆来迎

 山頂の感動に浸ること約20分。往路とは反対の尾根伝いに小仙丈ヶ岳(2855m)
経由の道を取る。左側も右側も遥か下方まで急斜面となっている。カールと呼ばれる
かつて氷河がゆっくり削っていったツメ跡だという。細道がしばしば途切れでっかい
岩に前進を阻まれる。所々の岩に赤いペンキで矢印が書かれ、「道が無ければこの岩
をよじ登ってでも前進しろ」というシグナルを送ってくれている。足を滑らしたらど
こまで落ちてゆくのだろう。ましてこんな所で雨にでも遭ったら、生きた心地もしま
いと思う。標高では確実に下っていることは納得できるが、尾根の途中にコル(窪地)
が散在し、その分をまたよじ登らなければならない。こんなコースだと知っていれば、
登頂した同じ道を戻ればよかったのにと思う。じゃあもと来た道を戻る?それがまた
厳しいのだ。ただそれだけの理由で仕方なく前進する。ああ、人生またかくのごとき
か。厳しい下り坂だが、ときどき階段の踊り場のような小さな平地がある。そこから
前方には間近に北岳、間ノ岳、農鳥岳がならび、その肩越し遥かに富士が望まれた。
絶景かな。そのたびに休んでは、山城と写真を取り合った。南方の山々は今や雨雲に
包まれた。近くの山林もようやく強い風に煽られてシラビソやカバの樹林がうねるよ
うになびく。思わずシェークピアを思い出して、
 「おう、見よ!バーナムの森がこちらに向かって動いて来るではないか!」と、俺
が大声で言うと、山城が振り向いて、「マクベスさん、芝居は後にしてさあ急いで!」
とまぜ返した。
 これらぜいたくな景色はまもなくシラビソやダケカンバが見えるころには林に隠さ
れた。高山帯から亜高山帯までたどり着いたといえる。下りとはいえ道の多くはガレ
場。ここでもハイマツの枝に助けられながら一歩一歩着地点を確かめながら下る。何
回か足を滑らせて仰向けにひっくり返ったが、背中の荷物がクッションになってくれ
て、後頭部を守ってくれた。
 山城が言う。「芥川竜之介が『侏儒の言葉』でいわく。百里の道を行く者は九十九
里をもって半ばと思え」と。
 私が答える。「芥川は兼好法師が書いた。『軒先ばかりになりて、過ちすな、心し
て下りよ』といった高名の木登りの話から、それを思い出したのかも知れん。きっと
そうだ」と。
 山頂から1時間半。やっと「大滝の頭」まで下りた。ここからは昨日登った道を下っ
てゆく。カラマツ林が見えてくると、やっとああ里山に戻ってきたなと実感する。午
後、ここまで来てようやく雨が降りだしたが、バス停のある北沢峠に確実に近づきつ
つあるので、そう心配しない。
 「ああこの林、霧が右から左へ流れて行くのが見える。これが写真に撮れるだろう
か」と山城。
 「出来上がってみると案外詰まらん写真かも知れんが、撮っていったらいい。俺は
胸に収めただけで、撮らんけど」と俺。

・乳色の靄の流れる落葉松の林をよぎるふもとへの道

 やっとの思いで北沢峠のバス停にたどり着いた。10分の待ち合わせで長野県側に下
るバスに間に合った。「南アルプス長谷村営バス」と書かれたやや小振りのバスだ。
長谷村はこの4月隣接する伊那市に合併されたが、バスのペンキ文字はまだそのまま
だ。バスの運転手にそのことを言うと、「私ら、できたらいつまでも、長谷村という
文字を残しておきたいと思っとるくらいです」と答えた。地元住民にとって「長谷」
には「市」より、「村」がよく似合うのだ。13時に峠を発った林道バスは山ひだを這
うように急速に高度を下げ、50分後にはふもとの終点に着いてしまった。ここからは
別会社の循環バスに乗って高遠駅へ、更に別のバスで伊那駅に戻った。
 東京へ戻り、ふるさとの新聞「南信州」が「南アルプスの仙丈ヶ岳(標高3033
m)や塩見岳(3047m)が初冠雪し、南信州に一足早い冬の到来を告げた」と報
じたのはそれから間もない10月8日のことだった。

 伊那谷で1泊し友人宅で五平餅やお葉漬けをご馳走になって帰京した。それから数
日後の飯田の新聞は1面トップで「南アを世界遺産登録へ/年度内に推進協設立/3
県10市町村、飯田市議会にも働きかけ」(南信州10・5付)と報じた。飯田・下伊那
地域の南アルプスといえば烏帽子岳(2726m)、小河内岳(2802m)、荒川
岳(3083m)、赤石岳(3120m)、聖岳(3013m)、上河内岳(280
3m)、光岳(2591m)など名峰の数々を擁する。私たちは伊那市の仙丈ヶ岳登
山路の整備ぶりを大いに参考にして、世界各地からの訪問者の期待にも十分応えたい
ものだ。そのとき自分には何ができるかを、最近は考えている。来年は是非、山城と
共にこの「おらほの山」を目指したいものだ。

・みすずかる信濃山並みまなうらに紫だちてどこまで続く
(了)


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諏訪・岡谷の空気を深呼吸・・短歌の「ポトナム」忘年歌会に参加して [エッセー]

諏訪湖を見下ろす丘に立つ島木赤彦の旧宅「柿蔭山房」を訪ねる。

全国的な短歌結社「ポトナム」の関東甲信地区忘年歌会は例年、東京駅ビル「ルビーホール」で開くのを常としていたが、今回初めて信州諏訪の地で開かれた。当初の幹事が発病されたので、急遽、「信濃ポトナム」に幹事役が割り振られたからという。
 師走日曜の朝、新宿のバスセンターに駆けつけると、既に芝谷幸子代表(横浜在住)が先着されていた。昭和の末期まで、自ら広告会社を経営する傍ら主婦・母としての日常をも歌い続けた才媛の芝谷さん。来年は米寿を迎えんとしているが、ますます元気で大きな旅行かばんを自分でひょいとバスに引っ張り上げた。
バスで芝谷代表の脇に座り、「父親の仕事関係で小学校時代は米ロサンゼルスだった。関東大震災で首都圏がほとんど壊滅したという日本からのニュースを聞いて、被災地に送る救援物資を学校へ運んだ」など、芝谷さんの長い人生のエピソードの数々を聞きながら、富士急行の高速バスは一路信濃路へ向かう。筆者が飯田追手町小学校時代の恩師代田孟男先生(現在は厚木市在住)の勧めで「ポトナム」に入会したのは6年前のこと。一方、芝谷さんが「ポトナム」の創立者小泉とう(字解=草カンムリに冬)三(1894~1957)に誘われて入会したのが1948(昭和23)年というから、歌会歴では実に半世紀以上の開きがある。そもそもそんな二人がバスで席を同じゅうすることができるのは「ポトナム」の民主的な気風がなせる業か、はたまた筆者の礼儀弁えぬ非常識がなせる業か・・。
途中、相模湖から甲州へ至る途中の山々は、既にもみじが紅葉のピークを過ぎて、「元宋の赤」の時期を迎えていた。日本画家奥田元宋(1912~2003)が得意とした初冬のあのくすんだもみじ色だ。そして左手に雪被く富士と仙丈ケ岳や甲斐駒ケ岳、右前方に八ヶ岳と北アルプスの峰々。いずれも山頂は既に白銀に輝く。諏訪には約3時間で着いて、上諏訪駅近くの温泉旅館「渋の湯」の門をくぐると、直ぐが「歌会受付」となっていた。
参加手続きを済ませると間もなく、約50人の参加者が3つの分科会に分かれて歌会が始まった。参加者はあらかじめ自作1首を田口泰子幹事(飯田市在住)に提出し、それら提出歌の全てが印刷されて返送されてくると、それらの中から自分にとっての秀歌3首をまた田口さん宛て投票してあるのだが、まだ分科会の始め、作者名は伏せられている。そのほうが先入観なく、自由に批評や討論が出来るからだ。筆者の出た第1分科会ではめいめいの提出歌の批評が一巡した後で、東京・神奈川・山梨・浜松・奈良・信州など各地の参加者からそれぞれの地区の月例歌会の近況が報告された。このうち飯田・下伊那関係では次のような近況報告があった。
▼ 飯田並木会(報告者・原国子さん)=日曜昼過ぎの2~3時間、9人が公民館で歌会を開き、後でお茶や漬物で歓談。
▼ 飯田きさらぎ会(同・鈴木千代子さん)=果樹園や農家が多いので作業を済ませてから夜、伊賀良中村公民館に集まって。
▼ 松川町草の実短歌会(同・田村三好さん)=伊賀良と同じ理由で夜7時半から10時まで上新井公民館で。
 以上は第1分科会参加者からの報告のみだが、幹事の田口泰子さんによると、飯田・下伊那地域にはこのほか現在、▼八日会(豊丘村)▼天龍村短歌クラブ▼上市田短歌会▼新野短歌会などの「ポトナム」関係の定例歌会が続いているという。この地域の文化活動の活発な実態は「南信州」など地元新聞の短歌欄その他の多彩ぶりからも承知していた積りだが、「ポトナム」関係に限ってみても、我がふるさとにこれだけの歌会が毎月開催されているとは、まさに目を見張る思いだ。小学校恩師の妻・代田直美さんによると、教員時代の代田さん、やはり教員だった島崎和夫(1911~86、大鹿村生まれ)選者の時代、伊那谷の会員は100人とピークに達し、その隆盛が今につながるという。

 さて分科会が終わると、全体が大広間に集まって表彰式と忘年会である。参加者があらかじめ投票してあった秀歌3首を集計した結果、1位が9点で1人、2位が7点で3人だった。
1位作品は
・ 夏の日の恋は実らず青トマト青春のままピクルスとなる(神池あずさ=岡谷市在住)
で、芝谷代表から色紙の賞品が贈られた。因みに筆者の提出歌、
・店先に「裏の自宅にいます」という張り紙のあり田村商店(長沼)
は、今秋、仙丈ケ岳に登山しての帰り道、松川町の歌友田村三好さんの店を訪ねたときにあった張り紙から、宮沢賢治旧宅の「下ノ畑ニ居リマス」という書き置きの光景にダブらせて詠んでみたのだが、そもそも得点が入ったものかどうかさえ判明せず仕舞いであえなく討ち死にの体(てい)。なお田村さんの短歌はここ2年連続3回目の長野県知事賞に、昨年は歌集「天竜に近き店」で尾上柴舟賞に輝いている。
 忘年会は歌あり、日舞あり、フラダンスあり。その間に作品を通して知っていただけの方たちとの初対面があったり、「信州以外の方に信州りんご1個ずつのお土産」という申し出があったりで、にぎやかな忘年会となった。
いったんお開きとなって「日帰り組」が引き揚げた後は岡谷の歌人・今井哲郎さんの部屋に皆が集まって、今井さん持参のウイスキーや信州名物イナゴの佃煮などをいただいて短歌談義に花が咲いた。まさに「高談転(ウタ)タ清シ」(李白)である。その間にも温泉を楽しんだことは言うまでもない。寒くて未明に目覚め、温泉に入り直して体を温め、再び布団に潜り込んだが、今度は湖面を照らす十三夜の月影煌々として己が顔を照らして眠れず、暫く深夜ラジオで岡本敦郎と三浦洸一の懐メロを聴く。
・ 温泉にわが身あたたむ諏訪の宿月煌々として暫し眠れず(長沼)

明ければ快晴。地元在住の今井、神池両氏の車とタクシーに分乗して市内の半日ツアーを楽しむ。まず向かったのは諏訪湖を見下ろす丘の中腹の墓地で、道端に「北見志保子の墓」というまだ新しい道標が立っていた。10人ほどで墓石を囲み、誰歌うともなく、志保子の歌を口ずさんだ。
♪人恋ふは悲しきものと平城山にもとほり来つつたえ難かりき
♪古へも夫(つま)に恋ひつつ越へしとう平城山の路に涙おとしぬ(北見志保子)
 次いで訪ねたのは下諏訪町のやはり丘の中腹で坂の途中にある茅葺きの家、「柿陰山房 島木赤彦旧宅」だった。狩野永徳の襖絵に出てきそうなどっしりとした赤松の古木が印象的。
・ 桑の葉の茂りを分けて来りけり古井の底に水は光れり(島木赤彦)
など、数首の赤彦短歌が立て札に書かれていた。しかし赤彦といえば数年前、当地で今井さんに初めてお会いした折、「一番好きな一首は」との質問に答えられた一首がやはり一番忘れ難い。
・ 信濃路はいつ春にならん夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ(島木)
赤彦宅から坂を下って中央線をまたいでから右折し、諏訪湖を左に見ながら間もなくにある、同町「今井邦子文学館」を訪ねた。玄関脇にある今井のポートレートを見て、一行は口々に、「きれいな人だねえ」と感心するが、脇に、「当館は12~2月は休館とする。見学希望者は前もって島木記念館に申し込むこと」という張り紙があった。突然来ても見学できないのであきらめて、記念撮影だけとする。
・ぽつねんとこの諏訪のくにの屋根石ともだしはつべき我身なりしを(今井邦子)
車列をさらに進めて岡谷市に入り、諏訪湖西端の「釜口水門」に至る。我が伊那谷を貫く天竜川はここに発する。その水門の脇の広場に建つのが「小口太郎像」と「琵琶湖周航の歌」の歌碑だった。当地出身の眉目秀麗の小口が旧制三高生の姿で湖面を臨んで立つ。やはりここに立って歌わざるべからずだ。
♪われは海の子さすらいの/旅にしあればしみじみと/行方定めぬ波枕・・
と最後の6番まで歌い終えた。湖岸に沿って一行の解散地上諏訪駅へ今度は時計回りの帰り道、湖面におびただしい数のマカモ類と10数羽のコハクチョウの第1陣が、早くも北国から飛来していた。途中左手に、遠く白銀をいただく富士が見えた。
 「春から秋まで水蒸気で見えなかった富士が、寒いこの時期なってようやくはっきり見えるようになりました」と地元の運転手さん。
 駅前で昼食・解散後、筆者と歌人竹下典子さんの東京組2人が残った。竹下さんの「ガラスの里」(北澤美術館新館)が見たいというリクエストに応えて岡谷の神池さんが「ご案内します」と言ってくれる。今度はさっきと反対周りで再び岡谷方面に向かう。
「ガラスの里」を見終えて外に出ると、冬空の下、空気はぐっと冷え込んでいた。
「寒いでしょう。ほら諏訪湖のこちら側は日没がは早いのです。ここいらは<半日村>という位で」と、これも神池さんの解説だ。そういえば湖の彼方の上諏訪とその裏手に続く霧が峰方面はまだ、冬の日を燦々と浴びて紫色に輝いているではないか。
・午(ひる)過ぎて日の陰りたる里寒し「半日村」とは誰(た)が言い初(そ)めし(長沼)
最後に秋に詠んだ拙歌を再掲して、忘年会報告を終える。幹事役を果たされた「信濃ポトナム」の歌友諸氏に感謝する。
・ みすずかる信濃山並みまなうらに紫立ちてどこまで続く(長沼)  
                                                    (おわり)


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